【1-21】 見事に一段ずれていた
事務作業に没頭していたら、いつの間にかアールグレイ監査長が戻ってきていた。
手には鍵が握られており、周囲は真っ暗。他の席にも人影はいないから……ロミエは門限を超えてここに居座ってしまったらしい。
アールグレイは眉間に皺をよせて、不機嫌そうな顔をしている。
「……ロミエ・ハルベリィ、まずは道具を片付けろ。もう戸締りの時間だ。続きは明日やれ」
声音は丁寧だが、その目はまったく笑ってない。
それもそうだ。ロミエは漂ってくる香りに誘われて、あろうことか額を擦り付けてしまったのだ。
(ぜ、ぜぜぜぜっっっっったい変な奴だって思われたぁぁぁ!!)
実際変な奴だけれど、ここまで明確な奇行を行ってしまったのは初めてな気がする。
……それも、これから上司となる人に。
「あばばっばばばば……」
ロミエが動揺でガタガタ震えていると、アールグレイは「聞いているのか!」と一喝する。
「ひゃ、ひゃいぃっ!」
「……ならいい。作業に没頭するのはいいが、今後は時間も気にするようにするんだぞ」
「わ、かり……ました」
(あ、あれ、わたしの奇行について何も言ってこない……?)
どうして、あんな無礼を働いたのに……?
会長は監査長の事を礼儀に厳しい奴だと言っていた。だからてっきり、こっぴどく叱られたりするんだと身構えていたロミエは、少し拍子抜けしていた。
けれど無礼を働いたのは事実だし、そもそもこんな時間までこの部屋に居座ってしまったのもまた事実だ。
呼吸を整えて、どうにか頭を垂れる。
「……そ、その……ごめん、なさい……ご迷惑を、おかけして……」
「…………ああ。とにかく、今日はもう寮に戻って休め。急がんでも明日はやってくるからな。……ん? これは……」
「……?」
顔をあげると、アールグレイはロミエから視線を外し、今しがた行っていた得点の名簿を凝視していた。
「あ、あの……ど、どうされ、ました……?」
「……ロミエ・ハルベリィ」
「は、はいっ」
「名前と得点の位置がずれているぞ」
「……え」
そんなまさか。いや、そんな事は決して――。
ロミエはすぐに机に向き直り、答案用紙に書かれた名前と得点を照合していく。
見事に一段ずれていた。
「あ……ああっ……わたし……ミスを……ぁたしぃ……」
仕事を任されたのに、単純な内容なのに、それなのにわたしは失敗してしまった。
(わたしは期待……されていたのに……)
罪悪感に押しつぶされそうだった。
いや、既にロミエの頬には幾筋もの涙が流れ、ぽろぽろポトポトと流れ落ちてしまう。唇を噛んでも状態は変わらない。
(泣いたらダメ。泣いたらもっともっと迷惑をかけちゃうのに……!)
そう自分に言い聞かせても、一度決壊してしまった涙腺は塞がらない。とどめなく零れ落ちてしまう涙に、ロミエは両手で顔を覆ってしまう。
「うぅっ……ぅわぁっ、ぐすっ……ひぃん……」
泣いちゃダメ泣いちゃダメ! ただでさえ迷惑をかけているのに、もっと迷惑をかけてしまってるというのに!
だけれど、そう考えれば考えるほど湧き出てくる感情の濁流は収まらない。
自分の意志に反して涙と嗚咽が漏れ続けてしまうのだ。
「……ハルベリィ嬢」
「うぅぅ……ぐずッ。ひゃいぃ……」
ああ、呆れられた。でもしょうがない。わたしはこの人に迷惑をかけて、失望させてしまったんだ。
──ごめんなさい
そう言おうと口を開いたロミエだったが、アールグレイの言葉が遮った。
「このミスは、明日しっかり片付けろ。いいな」
「…………え」
何を言われたのかが分からなくて、パッと顔を上げる。
アールグレイはロミエを見ていない。ただ、机に置かれてある筆記用具や書類をテキパキと片付けている。
「ぇ、あ……の……」
「だから今日はさっさと帰れ。寮でしっかり休養をとって明日に備えるがいい」
ロミエが何か言おうと口を開くが、アールグレイは椅子に手を添えて離席を促す。
「で、でも……わたしは……、失敗を……」
「失敗したからなんだというのだ」
「……え?」
その言葉に、ロミエは驚いた。
失敗したら叱られるのが当然なのに、「なぜ失敗したのか」「どうしてこんなこともできない」と非難されて当然なのに。
それなのに彼は、アールグレイは言った。失敗したからなんだ――と。
ロミエは俯きかけていた顔をあげ、その真意を知りたくてアールグレイを見つめる。
「元より完璧な人間は存在しない。失敗したならば、その失敗に見合う成果を挙げろ。逃げることは許されないと思え」
逃げることは許されないと思え――。
その言葉がロミエに楔打つかのように突き刺さる。
もう逃げられない。失敗したら、期待を裏切ってしまっても逃げられないんだと、そう脅迫されたように感じて、ロミエは身体を強張らせてしまう。
しかしそれでも、アールグレイは目尻を下げて言った。
「……我が監査部にはハルベリィ嬢、貴女のように事務に長けた人材が必要なのだ」
(きっと、この人は優しい人。だけど、その優しさに甘えてたらきっと……私は大きなミスをしてしまう。……出来損ないだから)
膝に置いた手をギュッと握り、震える唇をどうにか動かして声に出す。
「で、でも……わたしなんかが……わたしみたいな出来損ないがいたら……きっとまた……ミスを……」
「であれば成長しろ。足りぬ部分があれば人の手を借りて補え。完璧であれとは言わん。ただ、成長することを諦めるのは許さんぞ」
「だからそう悲観するな」と、アールグレイは少し呆れた様子で言った。
多分、これ以上言っても「であれば成長すればいいだろう」と返ってくる気がする。
(きっとこの人は……シュメリート監査長は、そうやって成長してきたんだ)
失敗してもそこから学び、次に繋げる。
今は不可能であっても、いつか可能になるように努力を欠かさず、それでいて真っすぐ進んでいく力がある人なんだ。
もしそうなら、なんて素晴らしい生き様だろう……ロミエには――ニヒリアには眩しすぎる。
「……わかりました」
ロミエは深々と頭を下げようとしたところで、また額がアールグレイに当たりそうになったので慌てて顔をあげ、軽めの会釈をする。
そういえば、額を押し付けてしまった事を謝っていない。
「そ、その……さ、さっきわたしがご無礼をしてしまった事は……」
「……なんだ、言及されたいのか?」
その問いに、ロミエは全力で頭を横に振るう。
「い、いえっ! ……そ、その……忘れてください」
「言われなくとも。……まあ、初日なのに仕事を任せ過ぎたな。明日からはしっかりと休養を取りながら励め。わかったか」
「は、はいっ」
ロミエは手早く荷物をまとめ、戸締りをするために残るアールグレイに再度謝辞を述べてから、足早に寮へ戻っていったのだった。
寮に戻ったロミエだが、心配したショルトメルニーャやアナスタシアに問い詰められ、キルトエから頭を下げられるなど休むに気を落ちつけられなかったのは、また別のお話である。




