無かった事にしましょう
婚約者がカフェで美しい女性とふたりきりで会っていたらしい。エリナの嫌がらせのような言葉が耳について離れない。
『お似合いのおふたりだったわ』
その言葉の後に続くのは間違いなく『お前は彼の隣に立つに相応しくない』という言葉だろう。小柄で華奢、そして童顔なので実年齢の16歳より幼く見られがちなメルローズは、中身もまた幼い我儘娘だと周囲に思われがちだ。
難産の末生まれてきたひとり娘を溺愛している両親、彼らの気持ちに応えようとメルローズは敢えて無邪気で守りたくなるような少女を演じている。 父公爵はそれに気付いていても甘やかしている。守らなければならない大切な姫のように扱われるのは、周囲が忖度して追随する結果でもある。
その事がメルローズの悩みでもあった。真面目で正義感コの強いメルローズは時々わからなくなる。エリナの元婚約者に辛辣な問いかけをしたのも自分であれば、クリスフォードの前では甘ったれたお嬢様でいるのもまた自分なのだ。
クリスフォードが望むメルローズとは、いずれシュナイダ公爵となるであろう彼が、可愛がり庇護する存在であって、賢く優秀な存在は求めてはいない事はうすうす気がついている。
いつだってクリスフォードは優して決して声を荒げない。怒ったり焦った顔など見た事がない。それはメルローズに対してそれ程感情が揺らがないわけで。つまりどうでも良いと同義ではないか。
本当のところ自分が婚約者であることに不満はないのかしら?と考える時もある。彼はメルローズとシュナイダ公爵家と、どちらの方が好きなのだろう。
屋敷に戻るとクリスフォードから届けられた花束が目に入った。メッセージカードには『愛を込めて』と書いてあるが、クリスフォード本人は今日もやって来る予定はなかった。会えない婚約者は、今頃どこで何をしてるのだろう、誰と会っているのだろう。
女性と会っていた話は告げずに父親に婚約者の動向を尋ねてみたが、公爵は彼には大事な仕事を手伝ってもらっているが危険はないし心配は要らない、と答えるものだからそれ以上は聞けなかった。
*
年末の大舞踏会までひと月余りになったが、メルローズは未だクリスフォードと会えていなかった。相変わらずメッセージカードや花束、菓子類に可愛い小物は届けられるが肝心の本人は現れなかった。もしかすると彼は国内にいないのかもしれない、或いは来たくても来られない状況に追い込まれているのではないかなどと、流石に心配になってきた。
離れている時間が長くなり、メルローズには考える時間が生まれた。クリスフォードは婚約者としての交流する時、どんな顔をしていただろうか。楽しそうだった?嬉しそうだった?それとも義務だから一緒に過ごしてくれた?
考えれば考えるほどわからなくなる。クリスフォードは自分を愛しているのだと盲目的に信じていたメルローズは、そもそも愛がなんたるやよくわかっていない。美しくて優しい王子様のようなクリスフォードと結婚して、愛され守られ支えられて生きていくのだと信じて疑わなかったが、本当に愛されているのか疑い出したらきりがない。
会えない時間は残酷である。婚約者には会いに来ないのに、他の女性と会っていたという噂を聞かされて、メルローズはこれまで信じていた人を疑うという感情を持ってしまった。
悩んでいても何も変わらない。学友達の腫れ物に触るような気遣いも面倒だ。だから気晴らしに仲良しの専属侍女を伴って王都で流行りのカフェへ行くことにした。
馬車から降りて護衛を外で待たせると、メルローズは侍女と共に奥の個室へと案内された。そしてそこで思わぬ再会を果たしたのだった。
*
それはまさしくメルローズの婚約者のクリスフォードだった。案内された部屋の隣室からたまたま出てきたのは、麗しい女性を従えた笑顔のクリスフォードだったのだ。ちょうど角を曲がったところの死角で待機していたので相手からは見えないが、こちらからはしっかりと見ることが出来た。
「クリス様……」
とても楽しそう。いつも優しく微笑んでくれるけれど、あんなに楽しそうに笑っているクリス様を見た事がない。
メルローズは小さく震えた。その震えが大きくなりついに耐えられなくなり、その場から去ろうとして踵を返した時に声を掛けられた。
「あれ、メルローズじゃないか、どうしてここに?」
クリスフォードがメルローズに気付いて近寄ってく来た。メルローズは顔を顰めてそのまま出口に向かって駆け出した。逃げなくちゃとそう思ったのだ。
お嬢様!と侍女が呼んでいる。彼女はどうやらクリスフォードとメルローズの間に割って入って彼を足止めしてくれたようだ。
カフェを出て必死で走ったら護衛が見えた。
泣きそうな顔のメルローズと、追いかけてきたクリスフォードを見て何かを察した護衛は、クリスフォードに頭を下げるとメルローズを抱え上げた。
「待って、メルローズ!止まって、僕の話を聞いて」
「待たなくていいわ、屋敷に戻ります」
メルローズは護衛に告げると、意を汲んだ護衛はメルローズを抱えたまま馬車まで大急ぎで戻った。メルローズの体は小刻みに震え、寒いと呟いた。寒いのは体?それとも心なのか。
*
熱が出た。寒気は熱のせいだった。帰宅したメルローズはすぐさまベッドへ送り込まれて、医者の見立てた薬を飲まされた。
急に逃げたメルローズの後始末は侍女が片付けてくれたようで、土産に件のカフェの焼き菓子を買ってきた。熱が下がってから食べた焼き菓子は甘いのに苦かった。
それにしてもクリスフォードと一緒にいたあの綺麗な女性は誰なのだろうか。エリナ達が見たのはあの女性なのだろうか。
貴女は一体どこのどなたかしら?と、普段のメルローズならきっと問いかけていただろう。もし尋ねたとして、クリス様の恋人だなんて答えられたらと考えると怖くて何も訊けなかった。
「逃げてしまったわ」
そう、逃げ出した。まるで敵前逃亡だわ。薬で朦朧とする中メルローズは夢を見た。
クリフォードは見知らぬ女性と楽しげに大きな声で笑い合っていた。そして接触するほど額を近づけていてまるで恋人同士のようだ。メルローズは大声で笑う快活な彼を見たことはない。いつも冷静で大人びたクリフォードは優しく美しく微笑む。だからあんな無防備に笑う彼を見たのは初めてかもしれない。
女性がクリスフォードの頬を撫でながら問うた。
『お子様の相手は疲れるでしょう?』
夢の中でクリスフォードの輪郭がぼやけて答えは聞こえなかった。メルローズはこれはきっと夢ではなく事実なのだと思った。そうしたらなんだか泣けてきた。夢なのに、夢の中なのに。
翌朝、メルローズの瞼はひどく腫れてしまい、涙が枯れるほど泣くって本当なのね、とメルローズは思った。
熱が下がって落ち着きを取り戻したメルローズは両親に自分の気持ちを伝えた。その日見た事、耳にした噂、それらから判断してクリスフォードにはおそらく想う女性がいるだろうことを話した。
身体も心も幼い自分では彼には釣り合わないと思うと、正直な気持ちを父に告げたのだった。
*
「大体あの方、正義だのなんだのと仰るけれど独りよがりなのよ。全て御自分が正しいと思ってらっしゃるのは滑稽だわ」
「おやめなさいよ、本気でそう思ってるとしても、メルローズ様は公爵令嬢なのよ。滅多な事を口にしない方がいいわよ。家に抗議が来たらどうするの」
「何を今更。貴女達も言ってたじゃない。爵位は高いけれど中身は幼稚なご令嬢だって」
「見た目も、ねぇ」
「たとえ公爵家という後ろ盾にあっても、あんな人が麗しきクリスフォード様の婚約者だなんて、おかしいわよ」
「あら、それは言い過ぎよ」
エリナ達はくすくすと笑っていたが、メルローズの姿を目にするとさっと黙り込んだ。
熱のせいなのか食欲がなく少し痩せたメルローズは、クラスメイト達にごきげんようと挨拶をすると、悠然とした態度で自分の席についた。
「哀れよね、クリスフォード様にとっては婿入り先の政略結婚相手に過ぎないのに。そもそも家柄が良いというだけで、見た目は全く釣り合っていない事がわからないのかしら」
エリナは毒を孕んだ言葉を投げつけた。公爵令嬢へのあまりにも不遜な態度に周囲ははらはらしているが、そんなの知った事ではない。わたくしはメルローズのせいで婚約解消されてしまったのよ、と言いたげな堂々たる振る舞いだ。
無視を決め込んでいたメルローズが振り返ると、エリナと目が合ったので、無言でにっこりと微笑み返した。
何も言い返さないので、エリナはさらに揶揄うつもりできたが、悠然としたメルローズの姿に思わず少し後退りをして離れていった。エリナとて言い過ぎたという自覚はある。何事も引き際が肝心である。公爵家に喧嘩を売ったと思われたら面倒だ。しかし既に逆恨みの喧嘩を売りつけている事にエリナは気付いていない。メルローズがひとこと父親に告げれば、エリナの家はじわじわと追い詰められるだろう。
「メルローズ様、なんだか凄みが出てきたわ」
遠巻きにやり取りを眺めていた誰かが呟くと、同意の声が漣のように広がった。
あの子あんなに綺麗だったかしら、エリナは首を捻った。悠然と椅子に座ったメルローズは何だか一気に成長したように見えたのだった。
*
「お久しぶりですね、クリスフォード様、いえライデン伯爵子息様」
年末の大舞踏会を控えて王都中が湧き立っていた。
学院は冬の休暇に入っているので鬱陶しい噂話や煩わしい視線から解消されて、メルローズはやっと深く息が出来ると思った。
浅いところでジタバタとして、空気を求めて口をぱくぱくしている魚のようだった。何かが足りなくて、何もかもが足りなくて、ただ自分だけが正しいのだと他人の気持ちなど二の次にしてきたからきっと、しっぺ返しを喰らったのだろう。
王子様のような見た目をした美しい少年が、自分のような子どもに対しても丁寧に接する態度に感激して無理やり婚約者にしてしまった。身分だけは高い10歳の少女の婚約者になることを、当時14歳の彼はどう思っていたのか。
今ならわかる。クリスフォードは次男だから、自分の将来や家を案じて色んな不満を飲み込んだのだ。相手が公爵家のひとり娘だから我慢したのだ。美しさも才能も持っているが次男というだけで何の保証もされない未来を案じて、この婚約を受け入れたのだ。
14歳の思春期の少年を無理やり婚約者にしたのはメルローズだ。だから引導を渡すのもメルローズ自身でなくてはいけない。
「ライデン伯爵子息様には今までご無理を申し上げたり、振り回してしまった事を謝罪いたします」
父からはきちんと話し合いなさいと諭されて、この場が設けられた。なぜふた月以上も会えなかったのか、あの女性は誰なのか、納得するまで確認してみるとよいと言われたのだった。
しかしメルローズの気持ちの中では既にクリスフォードとの婚約は解消されている。今日会うのは謝罪のためだった。あの熱を出した日にメルローズは初恋と訣別することを決めたのである。
メルローズは軽く頭を下げた。幼稚な自分を今まで支えてくれたのだ。彼には感謝しかない。
「6年も縛り付けてごめんなさい。どうか貴方が望む道を……、本当に好きな方と結ばれて欲しいです」
クリスフォードは黙ったまま俯いて表情がよく見えない。メルローズはこっそりクリスフォードを覗き見たが、顔を両手で覆ったのでその表情は窺い知れなかった。
公爵家への婿入りというこれ以上にない好い縁談が流れたのだから悲しんでいるのかしら?
「何故?僕は君と婚約を解消するつもりなないよ。何故勝手に決めつけるの?僕はあの時話を聞いてほしいと言ったね。どうして逃げたの?君に会えなかった理由を知りたくはないの?
それとも君の中で僕はもう不要になったという事か」
ようやく面を上げたクリスフォードの顔にはいつもの穏やかな笑みはない。それどころか。
「え、怒ってらっしゃるの? 全て無かったことにしましょうと申し上げているのです。何故、ライデン様が怒るのですか」
「ああ、怒っているよ、僕は。理由も訊かずに勝手に婚約を解消しようとするメルローズに怒っている」
メルローズは慌てた。父から婚約解消の話が伝わっている筈だし、その理由だってわかっているだろうに。それに今更そんな感情をぶつけられても困ってしまう。
「本当に好きな方と結ばれるのが幸せだと思います。貴方には幸せになって欲しいのです」
「君以外の女性と結ばれて僕が幸せになるとでも?本気で思っているの?それともメルローズに好きな人が出来たというのか」
「だって……クリス、じゃなくてライデン様はあの女性と会ってらしても、わたくしには会ってくださらなかったわ」
「閣下から頼まれた仕事をしていたんだ。どうしても早々に片付けなければならない仕事だった。メルローズに会うと気持ちが鈍ってしまうから、会わなかったんだ」
「それならば一言お知らせくだされば良かったのです。今更ですけれど」
「全て話すからどうか聞いてほしい。
彼女は貴族学院の同窓生で隣国の伯爵令嬢だ。彼女の家は鉱山を所有していて、そこから貴重な鉱石が発見されたんだ。国内外問わず有力な家が投資や共同経営を持ちかけている中で、元同級生という繋がりのある僕が、シュナイダ公爵家の代表として交渉を一任されたんだ。
鉱山の持ち主ローリング伯爵は一筋縄ではいかない御仁だから、旧知の令嬢の方から口利きをしてもらうつもりで、その打ち合わせの際に2人でいるところを目撃されていた。知っていたけれど弁明よりまずは味方を得て話を進めたかったんだ。それを君に黙っていたのは申し訳なかったよ」
「打ち合わせ……それは2人きりで会わないと出来ない事なのですか?
いえ、いいんです。お二人で会っていても。だって貴方は彼女がお好きなのでしょう?」
「だからどうして彼女の事が好きだと思っているの?僕が好きなのは婚約者の君だけだよ。信じてくれないのかい」
「婚約者だから、義務として好きなのですか?」
「違う。僕は君が好きなんだよ。何を拗ねているのか知らないけれど、そんな屁理屈を言わないで欲しい」
「ローリング伯爵家のご令嬢、美しい方ですよね。貴族学院の同級生で、ふたりが並ぶとお似合いの一対で、学院内でも噂になる存在だった。ダンスのレッスンではいつもペアを組んでいたのですってね。
惜しむらくはライデン様には格上の家からゴリ押しされた婚約者がいて、ローリング様は泣く泣く諦めた」
とつとつと語り出したメルローズにクリスフォードは戸惑いを隠せなかった。先ほどまで婚約者を信じられないのかと怒りの表情を見せていたが、一体何が言いたいのかといった顔でメルローズを見つめていた。
「それから文化祭の劇で引き裂かれる悲劇の恋人同士の役を演じられたそうですね。それがまるで現実のようで、思い合っているのに結ばれない2人だとして評判になったとも聞きました。
正直なところ実にあっさりとローリング伯爵令嬢は帰国されたので、学生時代だけの淡い恋の思い出かと思っていたのですけれど、先日お見かけしてわかってしまいました」
「何がわかったと言うの?」
「勿論ライデン様の感情はわかりませんわ。貴方はご自分の本心をいつも隠し続けてらしたから。たとえ満面の笑顔だったとしても、それが作り物なのか本心なのかわたくしには判断がつきませんでした。
ただわたくしの前では見せたことのない笑顔だったことだけはわかりました。
話を続けてよろしいかしら」
前のめり気味になりメルローズの手を握ろうとしたクリスフォードを躱して、メルローズはにっこりと笑った。
子どもだ、幼いと思い込んでいた少女の随分と大人びた表情を垣間見て、クリスフォードは息を飲んだ。今までのメルローズなら自分が手を握って優しく微笑めば、頬を赤く染めて『クリス様、大好き』と言ったことだろう。
しかし今、目の前にいるのは、16歳の高位貴族の令嬢で、淑女の微笑み凄みさえ感じさせるメルローズだった。




