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第九章 読書の秋、あるいは物語の解釈を巡る静かなる闘争

 夏の喧騒が遠い日の夢のように過ぎ去り、我がクラインフェルト伯爵領には、秋の長雨が続く季節が訪れていた。外に出る機会も減り、屋敷の中を支配するのは、雨音と、頁をめくる微かな音。私は、自らの執筆活動の傍ら、書庫の奥で眠っていた古典文学を読み返すという、実に有意義な時間を過ごしていた。


 そんなある日、一つの純粋な疑問が、私の脳裏に芽生えたのである。

「同じインクの染み、同じ紙の束から、人はかくも多様な情景を汲み上げる。これはいかにして可能なのかしら?」


 およそ物語とは、読み手という名の受光器があって初めて意味をなす、不確かな光である。書き手の意図など、広大なる解釈の海に浮かぶ、小舟にすぎぬのではないか。ならば、我が仲間たちの受光器がいかなる性能を持つのか、検証せねばなるまい!


「皆様! わたくし、読書会を開こうと思いますの!」


 私は、かつて本で読んだ、古の時代の「文学的サロンの再現」と称し、アンナ、コンラート、レオを巻き込んで、屋敷で「読書会」を開催することを、高らかに宣言したのであった。


 ***


 題材選びは、慎重を期した。難解な哲学書では皆が眠り、甘すぎる恋愛小説ではコンラートが居心地悪いだろう。熟考の末、この国で誰もが知る古典悲恋物語『月影の騎士と湖の姫君』が、今回のテキストとして選ばれた。


 読書会当日まで、各自が同じ本を読む。その様子は、実に三者三様、いや、私を含めて四者四様であった。

 私は書斎で、物語の構造分析や伏線、華麗なる比喩表現に線を引いては、批評家のように唸っていた。

 アンナは仕事の合間に、暖炉のそばで静かに読み進め、時折、薄幸の姫君の境遇に、そっとハンカチで目頭を押さえていた。

 コンラートは騎士詰所で、背筋を伸ばして読み、主君への忠誠と、姫君への愛との間で葛藤する騎士の姿に、深く心を打たれているようであった。

 そしてレオはといえば、庭の木陰で寝転がりながら読み、登場人物の滑稽な行動に「ぷっ」と吹き出しては、アンナに「本が汚れます!」と叱られていた。


 ***


 そして、運命の読書会当日。応接室には、アンナが用意した香り高い紅茶と、バターをたっぷり使ったクッキーが並んでいた。

 主催者として、まず私が、物語の構造や文学的価値について、滔々と口火を切った。

「皆様、お集まりいただき感謝しますわ。さて、この『月影の騎士と湖の姫君』ですが、その核心は、姫君の自己犠牲に見る、愛の昇華という崇高なるテーマにあるのです。騎士の行動は、そのテーマを際立たせるための、いわば触媒にすぎません」


 我ながら完璧な分析。皆、感銘を受けるに違いない。そう思った矢先、静かに、しかし断固たる声が響いた。

「いえ、お嬢様! 断じて違います!」

 声の主は、コンラートであった。

「この物語の核心は、誓いを破ってでも姫君を救おうとした騎士の『忠誠』と、主君への『裏切り』との間で引き裂かれる、その魂の葛藤にあります! 騎士として、彼の行動は断じて許されざるものでした!」


「えー、なんか二人とも難しく考えすぎじゃないスか?」

 今度はレオが、クッキーを頬張りながら口を挟んだ。

「俺は、姫君に横恋慕してた、あの欲張りな大臣が一番人間臭くて好きですけどね。結局、好きな女に正直になれなかった、あの騎士が一番のヘタレでしょ」


 ヘタレですって!? 私の分析によれば、彼は崇高なる愛の前に苦悩する、気高き騎士のはず……!

 私が反論しようとすると、アンナが困ったように微笑んだ。

「皆様、本当に色々とお考えになりますのね。わたくしはただ、愛する人と結ばれなかった姫君が、あまりにお可哀想だと思った……ただ、それだけでございますわ」


 テーマは愛の昇華です!

 いや、騎士の信義こそ!

 登場人物の人間的魅力が全てだ!

 ただの悲しいお話ですわ!


 四者四様の解釈は全く噛み合わず、優雅なはずのお茶会は、いつしか、それぞれの正義を主張する「静かなる闘争」の様相を呈していたのである。


 ***


 議論は白熱したが、結論は一向に出なかった。闘争の終結を告げたのは、アンナの「あら、もうお茶がすっかり冷めてしまいましたわ」という、穏やかな一言であった。


 私は、この時、痛感したのだ。物語には唯一絶対の「正解」など存在しない、と。書き手の意図すら、無数の解釈の一つに過ぎない。物語とは、読み手一人ひとりの人生や価値観を映し出す「鏡」のようなものなのだ。

 自分の解-釈を押し付けようとしたことを、私は少し恥じた。と同時に、仲間たちの全く違う視点を知れたことに、大きな喜びを感じていた。


「皆様、ありがとう。わたくし一人で読んでいては、決して気づけない物語が、ここにはありましたわ」


 自室に戻った私は、小説の原稿に向かった。

 これまでの私なら、読者を特定の感動へ導こうと、計算ずくで物語を構築しただろう。しかし、今の私は違う。あえて解釈の「余白」を多く残した物語を描き始めた。読む人によって、ヒーローが悪役に見えたり、悲劇が喜劇に見えたりするかもしれない。そんな、豊かで、懐の深い物語を。


 物語の海に、唯一の正解などという灯台は存在しない。我々は皆、自らの人生という小舟に乗り、それぞれの航路で物語を旅するのだ。なんと厄介で、そして、なんと素晴らしいことであろうか。


 私は、次回の読書会の題材は、レオが好みそうな冒険活劇にしてみようかと考えながら、楽しそうに微笑むのだった。


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