第八章 不意の来客(招かれざる親戚)への対応マニュアル
夏の夜の祭りは、私の胸に言いようのない幸福感を残していった。理屈ではない、ただ分かち合うことの温かさ。私は、自分の世界がこの屋敷の仲間たちと共に、かくも平穏無事に続いていくものだと、すっかり信じ込んでいたのである。そう、嵐が、何の前触れもなくやってくるその時まで。
「お嬢様、大変です!」
アンナが、血の気の引いた顔で私の部屋に飛び込んできた。
「ヴァレンシュタイン伯母様と、ご令嬢のクラリス様が、こちらへ向かっているとの伝言が……!」
ヴァレンシュタイン伯母様。その名を聞いた瞬間、私の背筋を氷の指がなぞった。会うたびに『まだ結婚しないの?』『淑女たるもの、もっと社交的でなければ』と、善意という名の槍を突きつけてくる、あの伯母様が!
「無理です! 会えません! わたくしは今、命に関わる病に罹患したことにしてくださいまし!」
「一昨日、お元気そうにお庭を散策している姿を、村の者に大勢目撃されております!」
およそ『親戚』とは、血という抗いがたい呪縛によって結びつけられた、最も厄介な隣人である。彼らは、こちらの心の平穏を無慈悲に蹂躙しに来るのだ。ああ、なんという理不尽!
再び自室の殻に閉じこもろうとする私を、アンナは必死に引き留めた。
「お嬢様、ここで逃げては、かえって何を言われるかわかりません!」
絶体絶命の状況で、私は、かつて自ら封印したはずの思考パターンに活路を見出した。
「そうですわ! こういう時こそ、マニュアルです! 招かれざる客を、最小限の精神的ダメージで撃退するための『完璧なる対応マニュアル』を作成するのです!」
***
私の号令一下、緊急作戦会議が招集された。
まず、アンナから、貴族社会における「お茶会での会話術」のレクチャーを受ける。曰く、相槌は五種類を使い分け、相手の話を九割聞き、残り一割で当たり障りなく褒めよ、とのこと。実に高度な情報戦である。
次に、庭師のレオから、こっそり裏情報を仕入れる。「あの伯母様は、とにかく自分の娘のクラリス様の自慢話をするのが大好きですよ。そこをくすぐるのがコツです」と彼は言った。実に実践的な助言であった。
ちなみに、騎士のコンラートは、「万が一、物理的な攻撃に及んだ場合は、俺が……」と言い出し、アンナに「そういうことではございません」と静かに窘められていた。
準備は整った。アンナが伯母様役、レオが自慢の娘クラリス役となり、最終シミュレーションが開始される。
「まあ、セレスティナさん、お顔の色が優れないこと。やはり良い殿方を見つけないと、心も体も枯れてしまいますわよ。そういえば、うちのクラリスったら、この間、王宮の舞踏会で隣国の王子様と何度もダンスを踊って、それはもう大変だったんですのよ、オホホ」(アンナ伯母様)
「もう、お母様ったら、そんな大したことではございませんわ、オホホ」(レオクラリス)
「お、お心遣い、痛み入りますわ……まあ、す、素敵ですわね……」
マニュアル通りに返そうとする私の口からは、あたかも油の切れたブリキ人形のような、ぎこちない言葉しか出てこないのであった。
***
そして、運命の刻。応接室には、息詰まるような緊張感が漂っていた。
ヴァレンシュタイン伯母様と従姉妹クラリスは、予想通り、私の引きこもり生活をチクチクと責め、自慢話の集中砲火を浴びせてきた。私はマニュアルを脳内で再生し、必死で防戦一方の対応を続ける。精神がすり減っていくのが、自分でもわかった。
その時である。仲間たちの、絶妙なる援護射撃が火を噴いた。
まず、アンナがお茶を淹れ直すタイミングで、完璧な作法で会話を中断させる。「申し訳ございません、伯母様。こちら、本日一番の茶葉でございますので、ぜひ温かいうちに」。その威厳すら漂う動きに、伯母様の言葉が止まる。
次に、庭の手入れをする振りをして、窓の外に見える位置で、レオがわざと見事な大輪の薔薇を咲かせてみせた(ように見える剪定をした)。それを見たクラリスが「まあ、綺麗なお庭!」と食いつき、私への攻撃の矛先が逸れた。
極めつけは、私の後ろに控えるコンラートであった。彼の、あまりにも実直で、微動だにしないその存在感が、なぜか伯母様たちに無言のプレッシャーを与えている。「……な、なんだか、この騎士に見張られているようで、落ち着かないわね……」
仲間たちの援護に、私は勇気づけられた。そして、伯母様が決定的な一言を放った。
「あなたも、下世話なマダム・キュピドンの小説ばかり読んでいないで、もっと現実を見なさいな」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。
「伯母様! マダム・キュピドンの描く恋愛は、ただ甘いだけではございません! そこには、人の心の機微や、真実の愛を探求する、極めて深遠なる哲学的テーマが内包されているのです! 例えば、最新作『公爵様の不器用なる求婚』におけるアレクシス団長の行動原理は……!」
得意分野で熱弁を振るい始めた私の勢いに、伯母様たちは完全に気圧され、ただ唖然とするばかりであった。
***
嵐が過ぎ去った後の応接室で、私とアンナは、ぐったりとソファに沈んでいた。
私は、自分が作ったマニュアルがほとんど役に立たず、結局は仲間たちの機転と、自分の「好きなこと」を語る情熱によって、この難局を乗り切ったことに気づいた。
厄介な対人関係を乗り切るのに必要なのは、完璧なマニュアルではない。信頼できる仲間たちの存在と、自分自身の「芯」を持つことなのだ。
自室に戻った私は、書きかけだった『対応マニュアル』を、迷いなく破り捨てた。
そして、小説の原稿に向かう。私が描いたのは、ヒロインが意地悪なライバル令嬢を華麗に言い負かすシーンではなかった。
ヒロインが、友人たちのささやかな助けを借りて、苦手な相手との対話を、不器用ながらも必死に乗り越えていく。そんな、ささやかな勝利の物語だった。
「『招かれざる客』という名の嵐が過ぎ去った後、私の屋敷には、いつもの穏やかな静けさが戻ってきた。マニュアルなどなくとも、どうやら私は、この城でなら、どんな嵐も乗り越えていけるらしい」
私は、アンナが淹れてくれた、格別に美味しい紅茶を味わった。
「信頼できる、三人の騎士がいるのだから」