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第六章 風邪引き令嬢への最適なる看病プロトコル

 市場なる混沌の坩堝への歴史的探訪は、我が脆弱なる身体に、予測不能なダメージを与えたようである。引きこもり生活でなまりきった肉体にとって、あの人々の熱気と喧騒は、あまりにも過酷な試練であったらしい。翌日の昼下がり、私は見事なまでの悪寒と頭痛に襲われ、ベッドという名の白い孤島に取り残されていた。


「ああ……頭が、まるで熟れすぎたカボチャのように重い……」


 およそ風邪とは、心身の脆弱性に対する、自然界からの冷徹なる鉄槌に他ならない。だが、この私、セレスティナ・フォン・クラインフェルトが、ただ無為に病魔の蹂躙を許すはずもなかった。熱に浮かされた思考の中で、私はむしろ、新たな探求の光を見出していたのである。


「ただ寝ているだけでは、あまりに非生産的ですわ。そうです、これは、理想的かつ効率的な『看病』の在り方を研究する、またとない好機なのです!」


 高らかに(とは言っても、蚊の鳴くような声であったが)宣言する私に、アンナは「お静かになさってください、お嬢様」と、実に的確な返答をよこした。


 ***


 主君の一大事と聞きつけ、私の元には三者三様の「処方箋」が届けられた。


 まず、アンナの看病【正統派・現実的】。

 彼女は、侍女として完璧な仕事をこなした。ひんやりと心地よい濡れタオルを私の額に載せ、消化に良いお粥を匙で口元へ運び、部屋の空気を清潔に保つ。それは、あらゆる看病の教科書に載っているであろう、王道にして正統なものであった。


 次に、コンラートの看病【騎士的・物理的】。

 彼にとって「病」とは、肉体を蝕む「見えざる敵」であったらしい。彼が導き出した最適解は、病魔の侵入を物理的に阻止すること、すなわち警備の強化であった。彼は私の病室のドアの前に仁王立ちし、様子を見に来たレオを「病魔の侵入を許すわけにはいかん!」と、本気で入室を阻もうとしていた。挙句の果てには、「滋養強壮に!」と、どこで手に入れたのか巨大な獣の骨を持ってきて、アンナに「お気持ちだけで結構でございます」と丁重に追い返される始末であった。


 そして、レオの看病【庶民の知恵・精神的】。

 庭師である彼は、「貴族の薬もいいですが、こういう時は昔ながらの知恵ですよ」と言いながら、庭から摘んできた薬草で、爽やかな香りのハーブティーを淹れてくれた。また、「退屈は病の大敵ですからね」と、どこかで仕入れてきた、王都で流行っているという滑稽な歌を披露しては、アンナに「病人が休めません」と叱られていた。


 ***


 私は、熱に浮かされた頭で、これら三者の看病を冷静に(自分ではそう思っていた)分析し、それぞれの長所を組み合わせた「最適なる看病プロトコル」を構築、実行を命じたのである。


「アンナ、あなたのお粥は素晴らしいわ。これは、わたくしのプロトコルの基準点とします」

「はあ」

「コンラート!」

 ドアの外から「はっ!」と声がする。

「部屋の警備は結構ですが、病魔は物理障壁では防げません! それよりも、わたくしの精神を高揚させ、免疫力を向上させるため、窓の外で勇壮な剣の型を披露なさい!」

「御意!」


「レオ!」

「へいへい、お嬢様」

「あなたのハーブティーは有効です。ですが、さらに効果を高めるため、コンラートの剣舞に合わせ、わたくしを称える情熱的な詩を朗読するように!」

「……本気で言ってます?」


 主君の命令は絶対である。数分後、私の病室の窓の外では、実にカオスな光景が繰り広げられていた。コンラートが、真顔で「セイヤーッ!」と勇壮な剣を振り回し、その横でレオが、困り果てた顔で「おお、麗しの君よ、その頬は熱き林檎……」などと、即興の詩を叫んでいる。


 このあまりに奇妙な協奏曲に、私の熱はかえって上がりそうになり、見かねたアンナが持ってきた、妙に眠気を誘うハーブティーによって、私の意識は強制的にシャットダウンさせられた。


 ***


 どれくらい眠っていたのだろうか。

 次に目を覚ました時、部屋は夕暮れの光に染まり、静寂に包まれていた。

 そばでは、アンナが静かに椅子に腰掛け、小さな刺繍をしている。

 窓の外に目をやると、コンラートが、黙々と庭の落ち葉を箒で掃いていた。その動きは、剣を振るう時のように、無駄がなく、静かだ。

 そして、窓辺に目をやれば、私が眠っている間に、レオが傷んだ鉢植えの花を、そっと新しいものに植え替えてくれているのが見えた。


 誰も、何も言わない。

 誰も、私に指示されたわけではない。

 ただ、そこにいる。

 彼らの、静かで、穏やかな「気遣い」。それこそが、何よりも心地よい「看病」であることを、私は、この時初めて実感したのである。


「最適なる看病プロトコル」など、どこにも存在しなかったのだ。ただ、誰かが傍にいてくれるという、声にならない安心感こそが、何よりの薬なのだと。


 数日後、すっかり元気になった私は、小説の原稿に向かった。

 病に倒れたヒロインに、ヒーローが大げさな看病をするシーンではない。

 ヒロインが眠るベッドのそばで、ヒーローがただ静かに本を読みながら、彼女が目を覚ますのを、辛抱強く待っている。

 そんな、穏やかなシーンを、私は書き記した。


「風邪を治したのは、薬でも、お粥でも、ましてや剣舞でもなかった」


 私は、アンナが淹れてくれた、レオの庭のミントが爽やかに香る紅茶を、静かに味わった。


「ただ、静かな静かな、人の気配だった。それは、どんな文献にも載っていない、世界で一番効果的な処方箋なのである」


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