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第五十章 恋愛小説家はかく語れど、我が恋路は五里霧中

 夏の夜。私は、自室の机で、一本の羽ペンを前に、完全に立ち往生していた。

 目の前には、担当編集者が喜び、読者が熱狂するであろう、「三角関係」の物語の、完璧なプロットが広がっている。しかし、今の私には、その、あまりに巧みな物語の設計図が、ひどく色褪せて、嘘っぱちに満ちたものにしか見えなかった。


 マダム・キュピドンは、恋の達人を演じてきた。しかし、その舞台裏では、セレスティナ・フォン・クラインフェルトという、あまりに無知で、不器用な役者が、ただ、うろたえるばかりであった。この、滑稽なる二重生活に、果たして、意味はあったのだろうか。


 私は、静かに立ち上がった。

 そして、その、完璧なはずだったプロットの束を、一枚、また一枚と、暖炉の、静かに燃える火の中へと、投じていった。

 羊皮紙は、一瞬、くるりと丸まり、やがて、赤い舌に舐められるようにして、黒い灰へと、その姿を変えていく。それは、私が、これまでの「マダム・キュピドン」という名の、借り物の鎧を、自らの手で焼き捨てる、決別の儀式であった。


 ***


 プロットが全て灰と化した後、私の机の上には、ただ、真っ白な原稿用紙だけが残された。それは、無限の可能性の象徴であると同時に、あまりに広大で、道標のない、途方もない自由(という名の恐怖)でもあった。


 私は、ふと、窓の外に目をやった。

 庭では、夜警の任にあたるコンラートが、黙々と、しかし、少しも気を抜くことなく、その場に佇んでいる。

 遠くの、庭師の小屋には、まだ、灯りがついている。レオは、きっと、あの冒険小説の続きを、胸を躍らせながら読んでいるのだろう。

 そして、屋敷の廊下の明かりが、ふっと消える。アンナが、一日の仕事を終え、ようやく、自室に戻った合図だ。


 何の変哲もない、いつもの夜の光景。

 しかし、今の私には、その、あまりに穏やかで、複雑で、そして、かけがえのない日常こそが、自分が本当に描くべき、唯一の世界なのだと、はっきりとわかった。


 ***


 私は、再び、机に向かった。

 もはや、他人の恋を、あるいは、書物の中の恋を、研究する必要はない。研究すべき対象は、観察すべき事例は、分析すべきデータは、初めから、全て、ここに在ったのだ。この、私の、ままならぬ日常の中に。


 私は、新しい羊皮紙に、万年筆のペン先を、そっと落とす。そして、一番上の行に、私は、新しい小説のタイトルを、一文字一文字、確かめるように、書き記した。


『恋愛小説家はかく語れど、我が恋路は五里霧中』


 そして、私は、その物語の、本当の第一行目を、こう、綴り始める。


『我が名はセレスティナ。表向きは伯爵令嬢、その実態は、巷で人気の恋愛小説家。しかし、これだけは、はっきりと申し上げておかなければならない。わたくしは、恋というものを、全く、これっぽっちも、知らないのである』


 それは、私が初めて、「マダム・キュピドン」という仮面と、「セレスティナ」という素顔を、一つの文章の中に、同居させた瞬間であった。知らないことを、知らない、と認めること。それこそが、私の、本当の物語の始まりだった。


 ***


 物語を書き終えた、というわけではない。むしろ、何も始まってすらいない。

 しかし、私の心は、不思議なほどの、晴れやかな、そして、静かな決意に満たされていた。

 舞踏会も、ジュリアンの謎も、コンラートへの、この厄介な感情も。それらは全て、解決すべき「問題」ではなく、これから、わたくし自身が、そのペンで物語っていくべき、「愛おしい主題」なのだ。


 プロットは、崩壊した。そして、その瓦礫の中から、ただ一つの、本当の物語が、その姿を現した。

 それは、結末の決まっていない、実に厄介で、そして、どうしようもなく面白い、わたくし自身の物語。


 ――恋愛小説家はかく語れど、我が恋路は五里霧中。


 さて、この物語の次なる一頁は、一体、どのようなインクで、綴られることになるのであろうか。


 私は、ペンを置くと、窓を開け、春の、新しい朝の空気を、胸いっぱいに吸い込む。そして、あの夜空色のドレスを横目に、静かに微笑むのだった。


(了)

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