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第五章 市場における交渉術と、買い食いの作法について

『恋愛作法大全』なる、我が青春の愚行の記録を机の奥に封印して以来、私は、実に手持ち無沙汰な日々を送っていた。羅針盤を失った船が、ただ漫然と大海を漂うが如し。来る日も来る日も窓の外を眺めては、雲の形に意味を見出そうとするような、実に不毛な時間を過ごしていたのである。


 そんなある日の午後、侍女のアンナが、銀の皿に山と盛られた瑞々しいサクランボを運んできた。陽光を浴びて宝石のように輝くその赤い実を一つ、口に放り込んだ時、私の脳裏に、ある素朴にして根源的な疑問が浮かんだのだ。


「アンナ、この実に甘美なる果物は、一体どこで、どのようにして、わたくしの元へ届けられるのかしら?」

「市場で、八百屋の親父さんから買ったものでございますが」

「市場……!」


 その言葉の響きに、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。そうだ。我が世界は、これまで屋敷という名のはこの中に、実に綺麗に収まっていた。しかし、真の世界は函の外に広がっているという。ならば、この目で確かめねばなるまい。庶民の胃袋と欲望が渦巻く混沌の坩堝、『市場』なるものを!


「これは、マダム・キュピドンとして、市井の人々の息遣いを知るための、極めて重要な社会見学なのです!」

 私の高らかなる宣言に、アンナは一瞬、遠い目をして天を仰いだが、やがて「かしこまりました」と静かに頷いた。彼女のその表情は、半ば呆れつつも、半ば、引きこもりの主人がついに外の世界へ目を向けたことを喜んでいるようにも見えた。


 かくして、お供として絶対的な護衛役の騎士コンラートと、こうした場所に詳しそうな案内役として庭師のレオを伴い、私の壮大なるフィールドワークの幕は上がったのである。


 ***


 城下町の市場に馬車が着いた瞬間、私は生まれて初めてのカルチャーショックに襲われた。人々の喧騒、肉の焼ける香ばしい匂い、威勢のいい野菜売りの呼び声、そして馬糞の微かな香り。あらゆる情報が、私の五感を容赦なく殴りつけてくる。


「おお……なんという、情報の洪水……!」


 貴族令嬢として経験したことのない世界の奔流に、私は立ち尽くした。だが、長年の癖とは恐ろしいものである。私の脳は、たちまちこの混沌を「分析」しようと、勝手にフル回転を始めた。


「ふむ。あの婦人は、まず商品を褒め、次に僅かな傷を指摘することで、相手のガードを崩している。見事な心理戦ですわね」

「なんと! あの男性は、食器も使わず、串に刺さった肉塊を歩きながら食している! あれは、いかなる作法に基づいているのかしら……?」


 私がブツブツと呟いていると、隣のレオがニヤリと笑った。

「お嬢様、市場ってのは理屈じゃねえんですよ。美味そうな匂いに釣られりゃ、それが正解なんです」

 一方、コンラートは私の半歩後ろに控え、その鋭い視線で周囲を警戒し、私が人混みに押されないよう、見えない壁となって守っていた。案内役と護衛役。実に、見事な役割分担であった。


 ***


 見学だけでは、真の探求とは言えぬ。私は、自らこの混沌の渦に身を投じることを決意した。すなわち、「実践」である。


 まず、とある果物屋にて「交渉術」を試みた。先ほど観察した婦人の立ち居振る舞いを思い出し、私は店主に向かって言い放った。

「店主! この林檎、見事な艶ですわね。しかし、こちらの面に僅かなくすみが見受けられる。よって、価格の再考を要求します!」

 貴族令嬢然とした、我ながら完璧な口上であった。すると、人の良さそうな髭面の店主は、目を丸くして言った。

「へえ! お嬢ちゃん、目の付け所がいいや! こいつはちっと訳ありだからね、まけとくよ! 普通の倍の値段でどうだい!」

「……へ?」

「こんな可愛いお嬢ちゃんに買ってもらえるなら、林檎も喜ぶってもんさ!」


 私が、その親しげな詭弁に丸め込まれそうになった瞬間、「おっちゃん、このお嬢さんは世間知らずなんだ。これ以上からかうと、そこの騎士様に斬られるぜ?」と、レオが笑いながら割って入った。店主は「へへ、冗談だよ」と頭をかき、私は結局、適正価格で林檎を一つ買うことができた。


 次に、「買い食いの作法」である。レオが買った、熱々で肉汁の滴る焼きソーセージを、私は一口もらうことになった。だが、お上品に食べようとすればするほど、それは手の中で暴れ、ソースが私の純白のドレスに飛び散ろうとしたその刹那。

 すっ、と背後から手が伸び、コンラートが懐から取り出した雪のように白いハンカチで、私の口元を静かに拭ったのである。そのあまりに自然で、あまりにスマートな動きに、私の心臓は、不覚にも「とくん」と大きな音を立てた。


 その直後だった。人混みの中で、一人の少年が私にぶつかる振りをして、腰の財布に手を伸ばした。しかし、その手が財布に触れるよりも早く、コンラートの鋼のような腕が、少年の腕を正確に掴んでいた。

「……何をしている」

 地を這うような低い声。少年の顔は恐怖に歪み、財布はぽとりと地面に落ちた。その鮮やかな手際に、私は騎士という存在の頼もしさを、改めて思い知ったのである。


 ***


 屋敷への帰り道、馬車に揺られながら、私は心地よい疲労感に包まれていた。

「アンナ、聞いてくださいまし。市場の『理屈』は、わたくしが本で読んだ経済学とは、全く違うものでしたわ」

 私は、屋敷で待っていたアンナに、興奮気味に報告した。

「交渉とは、価格の駆け引きにあらず。人と人との心の通い合い、一種の遊戯ゲームなのですね」


 コンラートが見せてくれた、騎士としての頼もしさと、不器用ながらもスマートな優しさ。レオが助けてくれた、気さくで、どこか兄のような気遣い。そのどちらも、かつての『恋愛作法大全』には決して載っていなかった、予期せぬ、ささやかな親切だった。


 自室に戻った私は、迷わず小説の原稿に向かった。貴族のサロンでの、回りくどい会話劇ではない。活気あふれる市場で、不器用な騎士が、お転婆なパン屋の娘をスリから救う。そんな、ありふれているが、温かい人情話のシーンを、私は夢中で書き上げた。私の物語の世界が、また一つ、確かに広がった気がした。


「函の外の世界は、混沌としていて、理屈が通じなくて、少しだけ怖かった。けれど」


 私は、レオが帰り際にこっそり買ってくれた、紙袋入りの焼き栗を一つ、満足げに頬張った。


「そこには、驚くほど温かくて、美味しいものが溢れていたのである」


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