第四十六章 書きかけの恋文と、届かぬ想いの行方
作家の役割とは、現実をそのまま写し取ることではない。現実の中から、ささやかな喜びや、ほろ苦い真実といった「煌めき」を抽出し、それを、読者が夢中になれるような、非凡で、面白い「物語」へと昇華させること。――すなわち、錬金術師である、と。
私は、そのあまりに重大なる真実に到達した。そして、我が目の前には、最高の「原石」がゴロリと転がっているではないか。
そう、我が守護騎士、コンラートへの、この正体不明にして、厄介で、そして、どうしようもなく心を揺さぶる、感情である。
これぞ、マダム・キュピドンの次なる傑作を生み出すための、至高の素材!
私は、作家としての、新たな使命感に燃えていた。
この感情という名の、混沌とした原石から、物語の宝石を削り出すためには、まず、その原石の成分を、正確に分析せねばなるまい。
そのための、最も有効な手段。それは、この感情を、一度、言葉という名の、透明な器に移し替えてみること。
私は、決意した。
コンラートへ、恋文を書こう、と。
もちろん、これは、決して彼に渡すためではない。断じて違う。あくまで、作家としての客観的な感情の抽出作業であり、来るべき物語のための極めて高度な取材活動なのである!
***
私は、その神聖なる儀式のために、入念な準備を始めた。
書斎の机を、アンナに頼んで、塵一つないように磨き上げさせ、最も高価な羊皮紙を一枚、取り出す。インクも、この日のために、特別に新しいものを混ぜ合わせ、羽ペンは、白鳥の、最も美しい羽根でできたものを、自らの手で、鋭く削った。
その、あまりに物々しい私の様子に、アンナは、何かを言いたげな顔をしていたが、やがて、深いため息を一つだけ残して、部屋を去っていった。賢明な判断である。
さて、と。私は、椅子に深く座り直し、一度、大きく深呼吸をした。
そして、研ぎ澄まされた集中力と共に、ペン先にインクをつけ、真っ白な羊皮紙の上に、その、最初の言葉を、静かに、落とした。
『親愛なるコンラートへ』
その、たった一行を書き終えた、瞬間であった。
私の指が、ぴたり、と止まった。
全身の血が、沸騰したかのように、顔へと集まってくるのがわかる。心臓は、けたたましい警鐘のように、私の肋骨を内側から激しく打ち鳴らしている。
親愛なる? わたくしが、彼を? いや、もちろん、親愛ではある。しかし、この言葉の持つ、甘く、そして、どこか決定的な響きは、一体なんだというのだ。
私は、続けようとした。しかし、これまで、何万字と、恋の言葉を、よどみなく紡いできたはずの私の頭脳は、完全に、その機能を停止していた。
どんな言葉も、陳腐に思えた。どんな比喩も、薄っぺらく感じた。「あなたの瞳は、夜空の星のよう」などと書こうものなら、自分で自分を張り倒してしまいそうだ。
小説の登場人物に、恋をさせることと、自らの恋心を、たった一文字でも、紙の上に記すことの間には、絶望的なまでに、深く、そして、暗い溝が、横たわっていたのである。
***
結局、その恋文は、その日、一行以上、書き進められることはなかった。
初夏の長い日が、ゆっくりと暮れていき、書斎が夕闇に包まれても、私は、ただ、その一行が書かれた羊皮紙を、呆然と見つめることしかできなかった。
机上の空論は、終わったはずではなかったのか。
現実と向き合うと、決めたはずではなかったのか。
しかし、その現実は、私が想像していたよりも、ずっと、ずっと、手に負えない代物であったらしい。
「物語の恋と、現実の恋は、果たして、同じインクで書くことができるのであろうか?」
その、新たなる、そして、より一層、厄介な問いを前に、私は、ただ、途方に暮れるばかりであった。
書きかけの恋文は、その答えを、決して、教えてはくれなかった。




