第四十五章 凡庸なる現実と、非凡なる物語の狭間で
スランプ? この私が?
違う、断じて違う! わたくしは、ついに、真実の愛の形を捉えたというのに!
担当編集者からの、あの切迫した手紙を握りしめ、私は、書斎で一人、憤慨していた。なぜ、誰も、この深遠なるリアリズムを理解してくれぬのだ! 市場とは、読者とは、なんと、なんと、非情で、そして、芸術的感性の欠如した、嘆かわしい存在なのであろうか!
しかし、憤慨したところで、原稿が進むわけではない。私は、自分の信じる「リアル」と、読者が求める「夢」との間で、完全に板挟みとなり、どうしてよいかわからなくなってしまった。
私は、その悩める心を抱え、仲間たちがいるであろう、初夏の陽光が降り注ぐ庭園へと、救いを求めるように向かったのである。
***
庭園では、レオが薔薇の手入れをしており、その傍らで、コンラートが、警護という名目で、実に手持ち無沙汰に佇んでいた。アンナは、洗濯物を取り込みながら、二人を見守っている。
私が、事の次第を説明し、「わたくしの描いた『真実の愛』が、読者には受け入れられない……」と、力なく打ち明けると、三人は、それぞれの反応を示した。
「そりゃ、小説なんて、夢を買ってるようなもんですからな」
最初に口を開いたのは、レオであった。彼は、土のついた手袋をパンパンと叩きながら、実に即物的に言った。
「現実と同じくらい地味だったら、誰も金払ってまで読まないでしょうよ。派手な方が、面白いじゃないスか」
その言葉は、市場の非情な現実を、的確に代弁していた。
「俺は……」
次に、コンラートが、おずおずと口を開いた。
「お嬢様の書かれる、どんな物語も、素晴らしいと思いますが」
その言葉は、全く参考にならなかったが、しかし、彼の揺るぎない忠誠心と優しさに、私の心は、少しだけ、温かくなった。
そして最後に、アンナが、私に向かって、静かに、そして、優しく微笑んだ。
「お嬢様が、わたくしのような者の話から、何かを感じ取り、物語にしようとしてくださった。そのお気持ちだけで、わたくしは、十分、幸せでございます」
***
その、アンナの一言に、私は、はっとした。
そうだ。わたくしは、何を、勘違いしていたのだろう。
わたくしが、アンナの話から感じ取ったのは、「地味で、穏やかな恋物語」という、ただの形式ではなかったはずだ。私が心を打たれたのは、その物語の奥底にあった、ささやかで、ほろ苦く、しかし、確かに存在した「幸せ」という、感情の煌めきであったはずなのだ。
私は、その煌めきそのものを描くのではなく、ただ、物語の「地味さ」という、表面的な部分だけを、なぞろうとしていたのではないか?
作家の役割とは、現実を、そのまま写し取ることではない。
現実の中から、ささやかな喜びや、ほろ苦い真実といった「煌めき」を抽出し、それを、読者が夢中になれるような、非凡で、面白い「物語」へと昇華させること。
言わば、ありふれた石ころの中から、光る原石を見つけ出し、それを、誰もが見惚れるような、美しい宝石へと磨き上げる、錬金術師のような仕事なのだ。
***
私は、仲間たちに深く頭を下げると、書斎へと駆け戻った。
そして、担当編集者に、力強い筆致で、返事を書いた。
『ご心配には及びません。マダム・キュピドンは、決して、スランプなどではございませんわ。ご期待ください。最高のラブストーリーを、お届けいたします』
私は、書きかけの原稿を、破り捨てはしなかった。
アンナの物語から得た、リアルな感情の機微は、そのままに。しかし、その周りに、もっと読者の心を揺さぶるような、ドラマティックな出会いや、切ないすれ違い、そして、胸を焦がすような障害を、配置していく。
「凡庸なる現実と、非凡なる物語。作家とは、その狭間に立ち、両者を結ぶ、錬金術師のことであったのだ」
私は、ペンを握り直した。
「現実の恋は、地味で、穏やかで、それ故に尊い。しかし、物語の恋は、現実の煌めきを抽出し、磨き上げた、一つの宝石でなければならない。我がペンが紡ぐべきは、現実の写し鏡ではなく、現実を、より輝かせるための、美しき嘘なのである」




