第四十四章 担当編集者の絶叫と、市場の非情なる現実
アンナの語った、ささやかな恋の物語。それに深く感銘を受けた私は、自らの作家としての使命に、大いなる天啓を得た。そうだ、私が描くべきは、読者の心に媚びる、甘美なだけの夢物語ではない。現実に根差した、地味で、穏やかで、しかし、だからこそ尊い、「本物の愛」の形なのだ!
それからの数週間、私は、かつてないほどの情熱をもって、執筆に没頭した。
新作のタイトルは、『隣の騎士と、十年目の茶会』。
そこには、劇的な出会いも、燃えるような告白も、意地悪なライバルも、一切登場しない。ただ、一組の男女が、お茶を飲み、庭を散歩し、「今日の天気は、よいですな」「ええ、まことに」などと、当たり障りのない会話を交わしながら、十数年という、実にリアルな歳月をかけて、ゆっくりと、実にゆっくりと、お互いを理解していく。その、どこにでもあるが故に、どこにもない、尊い日常の煌めきを描いた。
なんと、なんと、刺激的なきらめきに満ちた、地味な日常であろうか! これまでの我が作品は、言わば、派手な花火であった。しかし、今、私が描いているのは、暖炉で静かにはぜる、一本の薪の美しさなのだ。この深遠なる芸術性が、分からぬ者はいまい!
私は、自らの最高傑作の誕生を、確信していた。
***
やがて、第一巻分にあたる原稿が完成した。
私は、それを、三度読み返しては、三度、自らが描いた、そのあまりのリアリティと、滋味深い愛情表現に、感動の涙を流した。
そして、深遠なる芸術家の、ささやかなる満足感と共に、その原稿を、王都の出版社へと送ったのである。きっと、担当編集者殿も、マダム・キュピドンの新たなる境地に、驚嘆と賞賛の言葉を送ってくるに違いなかった。
私は、その日を、今か今かと待ちわびていた。
そして、ついに、担当編集者から、返信の手紙が届けられた。いつもより、心なしか、分厚い気がした。
***
私は、期待に胸を膨らませ、その封を切った。
手紙は、実に丁寧な、時候の挨拶から始まっていた。そして、当たり障りのない賞賛の言葉が続く。
『拝啓、マダム・キュピドン先生。この度お送りいただきました新作原稿、拝読いたしました。登場人物たちの、あまりにリアルで、心温まる日常の描写、そして、穏やかに流れる時間……実に、素晴らしい筆致でございます』
ふふふ。やはり、彼には、わたくしの意図が分かったらしい。私は、満足げに頷いた。しかし、手紙は、次の行から、明らかに、その様相を変えた。そこには、インクの染みも滲まんばかりの、切迫した文字が、並んでいたのである。
『ですが! しかし! 先生! 読者がマダム・キュピドンに求めているのは、夢のようなロマンス、胸を焦がす情熱、そして非日常的な障害なのでございます!』
……え?
『この、あまりに穏やかで、波乱の一つも起きぬ物語を、読者が受け入れてくれるとは、到底、思えませぬ! 先生、もしや、深刻なスランプに陥っておいでなのでは!? 何かお悩みでもございますか!? あるいは、お体の具合でも、お悪いのでしょうか? 何なりと、ご相談くださいませ! 編集部一同、先生の、一日も早い「ご回復」を、心より願っております!』
私は、手紙を、呆然と、見つめていた。
スランプ? 悩み? ご回復?
違う。断じて、違う。これは、スランプなどではない。芸術的なる「進化」なのだ。わたくしは、ついに、真実の愛の形を捉えたというのに!
私の、この深遠なるリアリズムが、なぜ、誰も、理解してくれぬのだ!
***
私の芸術的進化は、市場からは、ただの「深刻なスランプ」としか、認識されなかったのであった。
私は、担当編集者からの、心配と絶叫に満ちた手紙を、ただ、握りしめることしかできなかった。
そして、心の底から、こう叫ばずにはいられなかったのである。
「市場とは、読者とは、なんと、なんと、非情で、そして、芸術的感性の欠如した、嘆かわしい存在なのであろうか!」




