第四十二章 侍女の恋バナと、意外なるその横顔
初夏の陽光が、サンルームのガラス窓を通して、床に暖かな模様を描いていた。庭の若葉の匂いを運んでくる、心地よい風が、部屋のカーテンを、静かに揺らしている。
その、あまりに穏やかな光景とは裏腹に、テーブルを挟んで向かい合った私とアンナの間には、奇妙な緊張感が漂っていた。私は、物々しく羊皮紙の質問票を広げ、羽ペンを構えている。その様は、研究者というよりは、さながら罪人を取り調べる尋問官のようであった。対するアンナは、居心地が悪そうに、何度も紅茶のカップに口をつけている。
「では、被験者第一号、アンナ。最初の質問です。あなたの『初恋』という事象は、いつ、いかなる状況下で、初めて観測されましたか? 可能な限り、客観的かつ定量的なデータをお願いします」
私の、実に学術的な問いかけに、アンナは、困り果てたように眉を下げた。
「お、お嬢様、そのような大げさなものではございません。ただの、子供の頃の、本当に、取るに足らないお話でございます」
彼女はそう言って、顔を赤らめ、必死に抵抗を試みる。
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しかし、私の、純粋な知的好奇心に満ちた(そして、全く悪意のない)真剣な眼差しに、アンナはついに根負けしたようであった。彼女は、ふう、と一つ、小さなため息をつくと、観念したように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
その時のアンナの横顔を、私は、初めて「観察対象」として、じっくりと見た。
アンナは、もうすぐ二十四歳になると言っていたか。普段はきっちりと結い上げられた、飾り気のない茶色の髪。働き者であることを示す、少し荒れた、しかし、あらゆる仕事を完璧にこなす器用な指先。華やかさはないが、その落ち着いた灰色の瞳の奥には、わたくしなど足元にも及ばぬ、深い知性と、そして、確かな芯の強さが宿っているように見えた。
彼女が語ったのは、同じ村で育った、大工の息子である、一つ年上の幼馴染との物語だった。
特別な告白も、情熱的な口づけもない。ただ、屋敷の裏を流れる小川で一緒に魚を釣ったり、村の祭りの日に、こっそり買った飴玉を、二人で分け合ったり。そんな、ささやかな思い出の積み重ね。互いの想いを、言葉にしなくても、何となく分かっている。そんな、淡く、穏やかな時間。
セレスティナの小説に登場するような、運命的な出会いも、燃えるような恋の言葉も、そこにはなかった。
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彼らの物語が終わった理由もまた、実に現実的なものだった。アンナが、このクラインフェルト伯爵邸に、侍女として仕えることが決まったからだ。彼は、父親の跡を継いで、村で大工になった。手紙を数回交わしたが、互いの生きる世界が違うことを、子供ながらに理解し、連絡は、いつしか途絶えてしまったという。
「恋、というほどのものではなかったのかもしれません。ただ、お互いの道が、違ってしまった。それだけのことですわ」
そう言って、彼女は、少しだけ寂しそうに、しかし、すっきりとした顔で微笑んだ。
私は、沈黙していた。私の質問票は、ほとんど白紙のままだ。私が予想していた、ドラマティックな展開も、分析すべきデータも、そこにはなかったからだ。
私は、用意していた次の質問――『その関係性における、物理的接触の段階的進展について』――を、そっと羊皮紙の裏に隠した。そして、全く違う、たった一つの問いを、口にした。
「……アンナ。その時、あなたは、幸せでしたか?」
アンナは、そのあまりに真っ直ぐな問いに、一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、これ以上ないほど、優しい笑顔で答えた。
「はい、お嬢様。とても。……幸せでした」
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その夜、自室に戻った私は、白紙のままの質問票を眺めていた。学術的聞き取り調査は、見事なまでに、何一つ、有用なデータを私にもたらさなかった。
しかし、私の心は、不思議と満たされていた。恋とは、必ずしも、情熱や悲劇の形をしているわけではない。穏やかで、ささやかで、そして、いつしか思い出に変わっていくような恋もまた、確かに、人の心を支える、温かい光なのだと知ったからだ。
マダム・キュピドンの新作。これまでは、ヒーローとヒロインの、運命的な恋物語だけが描かれていた。しかし、その物語に、初めて、結ばれることのなかった脇役たちの、ささやかで、ほろ苦い、けれど、確かに幸せだった恋の思い出が、短いエピソードとして、描き加えられるようになった。
「我が最初のケーススタディは、研究としては、完全なる失敗に終わった。しかし、である。私は、その代わりに、何よりも貴重なものを手に入れた。それは、数字や理論では決して測ることのできぬ、人の心の、ささやかな温かみと、ほろ苦い真実であった」
私は、ペンを置いた。
「なんと、なんと、作家冥利に尽きる、素晴らしい『事例研究』であったことか!」




