表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

41/50

第四十一章 新たなる研究手法、あるいは身近なる最初の被験者

 あの、混沌の極みに達した、思索の夜が明けた。私は、一つの、ささやかで、しかし、確固たる真実を、その手につかんでいた。『恋とは、分析するものではない。物語るものなのだ』と。

 昨日の私よ、さようなら。書物の埃にまみれ、理論の迷宮を彷徨っていた、哀れなる私。今日の私は、もはや、安楽椅子に座したまま、世界を語る傲慢な哲学者ではない。私は、現実という名の、広大なる荒野に、自らの足で踏み出す、一人の探検家となるのだ!


 そのためには、まず、新たな研究手法を確立せねばなるまい。

 私は、新しい羊皮紙を取り出し、そこに、実に流麗な文字で、こう書き記した。

「定性的観察調査、ならびに、事例研究を通じた、実存的感情の理解」

 すなわち、本の中の恋ではなく、「生きた人間の恋」を観察・取材することで、その本質に迫ろうという、実に画期的なアプローチである。


 ***


 私は、作戦司令室と化した自室を、興奮気味に歩き回りながら、最初の「事例研究」の対象者、すなわち、記念すべき被験者第一号の選定基準を、高らかに口にした。その間、アンナは、私の燃え尽きた思考の残骸――散らかった書物や羊皮紙を、黙々と片付けてくれている。


「被験者第一号は、慎重に選ばねばなりません。まず、観察が容易であること。次に、信頼関係が構築されており、率直な証言が期待できること。そして何より、恋愛という名の、不可解なる現象に、ある程度の経験値を持つ人物であることが望ましい……」


 私の脳裏に、候補者の顔が浮かぶ。

 コンラート? 駄目ですわ。彼は、あまりに朴念仁すぎて、自らの感情すら言語化できていない。データとしての信頼性に欠ける。

 レオ? 彼も駄目。軽薄な言動の裏に本心を隠し、証言が汚染される危険性が高い。

 アルビヌス先生? 先生は、理論に偏りすぎて、現実の事例としては参考になりません。


 では、一体、誰が……?

 その時、私の視線は、黙々と部屋を片付けている、一人の人物に、ぴたりと注がれた。

 そうだわ。灯台下暗し、とは、まさにこのこと。

 最も身近で、最も信頼でき、そして、わたくしの知らない、様々な人生経験を、その胸の内に秘めているに違いない人物。


「……アンナ」

 私の、あまりに真剣な声色に、アンナは、埃を払っていた手を止め、不思議そうな顔でこちらを振り返った。

「あなたしか、おりませんわ」


 ***


 私は、アンナを応接室のソファに丁重に座らせると、彼女の前に、畏まって対峙した。

「アンナ。わたくしの、この新たなる研究の、記念すべき最初の被験者となっていただく栄誉を、あなたに授けます」

「はあ……」

「ついては、あなたの恋愛経験(という名の貴重なサンプル)を、人類の叡智のために、そして、マダム・キュピドンの新たなる傑作のために、提供してはくださいませんか?」


 私の、実に大真面目な申し出に、アンナは、手にしていたティーカップを、ソーサーの上で、カタリと震わせた。

「お、お嬢様、何を仰いますか。わたくしのような者に、お話しできるような、そんな華やかなことなど、何一つ……」

 彼女は、慌ててそう言って、顔を赤らめている。


「いいえ、アンナ。それこそが、わたくしが求めるものなのです」

 私は、身を乗り出して力説した。

「書物の中の恋は、あまりにドラマティックで、装飾過多ですわ。わたくしが今、知りたいのは、そういうものではない。あなたが経験したであろう、ありふれた、しかし、だからこそ真実の光を宿しているであろう、ささやかな心の揺らぎなのです。お願い、アンナ。あなたの物語を、わたくしに聞かせて」


 私の、子犬のように、潤んだ(と自分では思っている)瞳での懇願に、アンナは、観念したようであった。彼女は、この世の終わりのような、深いため息を一つ、つくと、

「……かしこまりました。わたくしのような者の話で、お役に立てるのでしたら」

 と、小さな声で、そう答えてくれたのである。


 ***


 その日の夜、私は、興奮で、なかなか寝付けなかった。

 机の上には、明日の「聞き取り調査」のための、質問票が置かれている。

『最初の出会いは、どのような状況でしたか?』

『その時の感情の変動値を、仮に、心拍数の上昇率で示すとすれば?』

『交わされた言葉の、記号論的な意味合いについての考察』

 ……など、実に学術的な問いが並んでいる。


 しかし、私は、そのリストの最後に、これまでとは、全く違う種類の問いを、一つだけ、書き加えていた。


『その時、あなたは、幸せでしたか?』


 理論の時代は、終わった。これより始まるは、観察と対話の時代である。

 我が最初の被験者、アンナ。彼女の心という名の、未知なる大陸から、わたくしは一体、どのような真実を持ち帰ることができるのであろうか。

 ああ、探検の前夜の、この胸の高鳴りを、一体何と呼ぶべきか!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ