第四十一章 新たなる研究手法、あるいは身近なる最初の被験者
あの、混沌の極みに達した、思索の夜が明けた。私は、一つの、ささやかで、しかし、確固たる真実を、その手につかんでいた。『恋とは、分析するものではない。物語るものなのだ』と。
昨日の私よ、さようなら。書物の埃にまみれ、理論の迷宮を彷徨っていた、哀れなる私。今日の私は、もはや、安楽椅子に座したまま、世界を語る傲慢な哲学者ではない。私は、現実という名の、広大なる荒野に、自らの足で踏み出す、一人の探検家となるのだ!
そのためには、まず、新たな研究手法を確立せねばなるまい。
私は、新しい羊皮紙を取り出し、そこに、実に流麗な文字で、こう書き記した。
「定性的観察調査、ならびに、事例研究を通じた、実存的感情の理解」
すなわち、本の中の恋ではなく、「生きた人間の恋」を観察・取材することで、その本質に迫ろうという、実に画期的なアプローチである。
***
私は、作戦司令室と化した自室を、興奮気味に歩き回りながら、最初の「事例研究」の対象者、すなわち、記念すべき被験者第一号の選定基準を、高らかに口にした。その間、アンナは、私の燃え尽きた思考の残骸――散らかった書物や羊皮紙を、黙々と片付けてくれている。
「被験者第一号は、慎重に選ばねばなりません。まず、観察が容易であること。次に、信頼関係が構築されており、率直な証言が期待できること。そして何より、恋愛という名の、不可解なる現象に、ある程度の経験値を持つ人物であることが望ましい……」
私の脳裏に、候補者の顔が浮かぶ。
コンラート? 駄目ですわ。彼は、あまりに朴念仁すぎて、自らの感情すら言語化できていない。データとしての信頼性に欠ける。
レオ? 彼も駄目。軽薄な言動の裏に本心を隠し、証言が汚染される危険性が高い。
アルビヌス先生? 先生は、理論に偏りすぎて、現実の事例としては参考になりません。
では、一体、誰が……?
その時、私の視線は、黙々と部屋を片付けている、一人の人物に、ぴたりと注がれた。
そうだわ。灯台下暗し、とは、まさにこのこと。
最も身近で、最も信頼でき、そして、わたくしの知らない、様々な人生経験を、その胸の内に秘めているに違いない人物。
「……アンナ」
私の、あまりに真剣な声色に、アンナは、埃を払っていた手を止め、不思議そうな顔でこちらを振り返った。
「あなたしか、おりませんわ」
***
私は、アンナを応接室のソファに丁重に座らせると、彼女の前に、畏まって対峙した。
「アンナ。わたくしの、この新たなる研究の、記念すべき最初の被験者となっていただく栄誉を、あなたに授けます」
「はあ……」
「ついては、あなたの恋愛経験(という名の貴重なサンプル)を、人類の叡智のために、そして、マダム・キュピドンの新たなる傑作のために、提供してはくださいませんか?」
私の、実に大真面目な申し出に、アンナは、手にしていたティーカップを、ソーサーの上で、カタリと震わせた。
「お、お嬢様、何を仰いますか。わたくしのような者に、お話しできるような、そんな華やかなことなど、何一つ……」
彼女は、慌ててそう言って、顔を赤らめている。
「いいえ、アンナ。それこそが、わたくしが求めるものなのです」
私は、身を乗り出して力説した。
「書物の中の恋は、あまりにドラマティックで、装飾過多ですわ。わたくしが今、知りたいのは、そういうものではない。あなたが経験したであろう、ありふれた、しかし、だからこそ真実の光を宿しているであろう、ささやかな心の揺らぎなのです。お願い、アンナ。あなたの物語を、わたくしに聞かせて」
私の、子犬のように、潤んだ(と自分では思っている)瞳での懇願に、アンナは、観念したようであった。彼女は、この世の終わりのような、深いため息を一つ、つくと、
「……かしこまりました。わたくしのような者の話で、お役に立てるのでしたら」
と、小さな声で、そう答えてくれたのである。
***
その日の夜、私は、興奮で、なかなか寝付けなかった。
机の上には、明日の「聞き取り調査」のための、質問票が置かれている。
『最初の出会いは、どのような状況でしたか?』
『その時の感情の変動値を、仮に、心拍数の上昇率で示すとすれば?』
『交わされた言葉の、記号論的な意味合いについての考察』
……など、実に学術的な問いが並んでいる。
しかし、私は、そのリストの最後に、これまでとは、全く違う種類の問いを、一つだけ、書き加えていた。
『その時、あなたは、幸せでしたか?』
理論の時代は、終わった。これより始まるは、観察と対話の時代である。
我が最初の被験者、アンナ。彼女の心という名の、未知なる大陸から、わたくしは一体、どのような真実を持ち帰ることができるのであろうか。
ああ、探検の前夜の、この胸の高鳴りを、一体何と呼ぶべきか!




