第四十章 混沌のデータと、作家のペン先に宿る唯一の真実
ジュリアン侯爵という名の、甘美なる毒が、私の心に一滴、落とされて以来。私の書斎は、静かなる戦場と化していた。
机の上には、三つの異なる軍勢が、互いに譲らず、陣を構えている。
一つは、アルビヌス先生の講義ノート。『禁忌』と『失敗例』がびっしりと書き込まれた、かの賢者の「理論と安全性」を説く、重装歩兵の如き軍勢。
一つは、ジュリアン様が持ってきた、古い恋の詩集。情熱的で、非論理的な愛の言葉が並ぶ、「情熱と危険性」を象徴する、華麗なる騎馬隊。
そして、最後の一つは、私の、コンラートに関する観察記録。「雪うさぎ」「薪割り」など、どちらの理論にも当てはまらぬ、素朴な事実だけが記された、「予測不能な現実」を体現する、正体不明の民兵たち。
我が頭脳は、今や、この三つの思想体系が、互いに覇を競う、凄惨なる哲学的戦場と化した。この、決して相容れぬ三つのデータを統合し、新たなる、唯一無二の恋愛法則を導き出すことなど、神ならぬ我が身に、一体どうして可能であろうか!
私は、巨大な相関図を描き、この混沌に秩序を与えようと試みたが、あまりの複雑さに、ついに、その羽ペンを、ことりと机に投げ出した。
***
研究は、失敗したのだ。
私は、全てのノートや書物を、机の隅へと押しやった。自分には、恋を分析する資格など、初めからなかったのかもしれない。深い無力感に襲われ、ただ、ぼんやりと暖炉の火が、ゆらゆらと揺れるのを、見つめていた。
そこへ、アンナが、温かいミルクの入ったカップを手に、静かに入ってきた。彼女は、机の上の惨状を見ても、何も言わない。ただ、いつも通り、私のそばに、温かいミルクを、ことりと置いてくれるだけ。
その、何でもない、理論も情熱も介在しない、ただの優しさが、私の荒れ狂う心を、少しだけ、凪いだ状態へと戻してくれた。
***
アンナが去った後、再び一人になった書斎で、私の視線は、ふと、机の隅に追いやられた、マダム・キュピドンのための、書きかけの原稿に留まった。
私の哀れなヒロインもまた、物語の中で、二人の男性の間で板挟みになり、立ち往生している。そうだ。私自身のことは、もうどうでもよい。せめて、この子だけは、救ってあげなくては。
その一心で、私は、再びペンを取った。
理論を適用するのではない。ただ、ヒロインの心の声に耳を澄ませ、その指が動くままに、物語を紡いでいく。
彼女は、どうしたいのか。彼女が、本当に求めているものは、何なのか。
そして、私のペンは、ある一つの答えを導き出した。ヒロインは、理論的な男も、情熱的な男も、選ばない。彼女が選んだのは、「どちらの殿方か」ではなく、「殿方と、どう向き合うか」という、態度の選択であった。
『彼女は、彼の心を、書物で読むのではなく、ただ、隣に座り、同じ時を過ごすことで、知りたいと、そう、思った』
その一文を書き終えた瞬間、私は、はっと息をのんだ。
これだ。これこそが、私が無意識のうちに求めていた、答えなのだ。
机上の空論でも、甘美な毒でもない。ただ、不器用に、懸命に、相手を知ろうとすること。その、ささやかな一歩こそが、私の進むべき道であったのだ。
***
私は、書き上げたばかりの原稿を、胸に強く抱きしめた。壮大な恋愛法則は見つからなかった。しかし、次の一歩を踏み出すための、ささやかで、しかし、確かな羅針盤を、私は、自らの手で手に入れたのだ。
「混沌のデータは、何一つ、答えをくれはしなかった。老賢者の理論も、侯爵令息の情熱も、ただ、私を混乱の渦に突き落としただけである。しかし、である。答えは、初めから、ここにあったのだ」
私は、窓の外を見た。東の空が、白み始めている。庭では、コンラートが、朝の警備の準備を始めているのが見えた。
彼の姿を、私は、ただ、静かに見つめていた。その心には、もう、理論も、計算も、禁忌もなかった。ただ、ほんの少しの勇気と、尽きせぬ好奇心だけが、静かに宿っていた。
「我が作家の魂が、このペン先に、ささやかなる真実として、宿していたのである。恋とは、分析するものではない。物語るものなのだ、と」




