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第四章 口づけの類型とその効果について

 嫉妬という劇薬の危険性を学び、私は一つの結論に達していた。小手先の駆け引きにあらず、ただ相手を深く知ること。それこそが、男女の魂を結びつける唯一の道筋なのだ、と。では、相手を深く知るためには、いかなる手段が最も有効か? 答えは自明であった。「デート」、すなわち、二人きりで過ごす時間をおいて他にない。


 だが、である。私の思考は、またしてもあらぬ方向へと華麗なる飛躍を遂げた。ただ二人で時を過ごすだけで、何が解決するというのか? 物語にはクライマックスが必要である! デートとは、いわば一編の戯曲なのだ。散策という序幕に始まり、会話という展開を経て、やがて訪れるべき大団円。それこそが『口づけ』なのである!


「口づけなきデートは、解決なき推理小説であり、主人公のいない英雄譚なのです! アンナ、あなたもそうは思いませんこと!?」

「お嬢様。そろそろ、段階というものをお学びになってはいかがでしょうか」


 お茶を運びながら、アンナはもはや隠す気もないほど深いため息をついた。そのため息は、私の燃え盛る学術的探求心の前では、あたかも柳の枝に吹くそよ風の如く、無力であった。


 ***


 今回の研究は、これまでになく真剣を極めた。私は書庫『叡智の迷宮』にて、古今東西の恋愛小説や詩集から「口づけ」の場面のみを抽出し、その類型と効果を分析・分類したのである。その成果は、新たなる論文『口づけの類型とその効果について』として、数日で書き上げられた。


【抜粋:口づけの類型分析】

 一、不意打ち型: 驚きとときめきを最大化するが、拒絶のリスクも高い。要、瞬発力。

 二、合意形成型: ムードを高め、互いの同意のもとで行われる。ロマンチックだが予定調和のきらいがある。要、雰囲気作り。

 三、祝福的口づけ: 額や手の甲への口づけ。敬愛と庇護の念を示す。恋愛の初期段階において極めて有効。


「アンナ、今回の実験対象ですが」

「はい」

「より繊細な感情の機微を観察するため、レオを対象とします。コンラートは……また忠誠心を燃やして終わる可能性が高いですから」

「賢明なご判断かと」

 アンナの冷静な同意を得て、私は最終計画を告げた。

「そしてコンラートには、デート中の不審者を見張る、重要な警備役を命じなさい」


 かくして、私の研究史上、最も大胆にして赤面必至の実験の舞台は、完璧に整えられたのである。


 ***


 翌日の昼下がり、屋敷の庭園には、アンナが用意した豪勢なピクニックシートが広げられていた。色とりどりのサンドイッチ、艶やかなフルーツタルト、そしてキラキラと輝く檸檬水。完璧なセッティングである。

 私の向かいには、実験対象たるレオが、面白そうな顔で座っている。


「いやはや、お嬢様と二人きりでお茶会なんて、光栄ですな」

「……ええ。これも、学術的探求の一環ですのよ」


 私は文献通りに「相手の目を三秒見つめて微笑む」を試みるが、レオの「お嬢様、そんなに熱っぽく睨まれると、俺のハートが射抜かれちまいますぜ」という軽口に、たちまち平常心を失う。少し離れた木陰では、騎士コンラートが、微動だにせず仁王立ちで警備任務を遂行しており、その姿が、この奇妙な状況に一層のシュールさを加えていた。


 やがて、夕暮れの光が庭園を黄金色に染め始めた。ムードは(私の計算上では)最高潮に達している。今だ。私は意を決して、本題を切り出した。


「レオ……その、わたくしは、今、恋愛における最終局面の研究をしているのです。つきましては、口づけの類型について、あなたのご意見を伺いたく……」

「はあ」

「まず、不意打ち型ですが、これは相手の同意を得ないため、倫理的問題を内包しており……」

 私が、極めて学術的に口づけのタイプを説明し始めると、レオは呆れたように笑って、私の言葉を遮った。

「お嬢様。そんなのは、頭で考えることじゃありませんぜ」


 そう言うと、彼はゆっくりと、私に顔を近づけてきた。

 来る。研究の成果が、今、試される……!

 私はパニックに陥り、目を固く、固くつぶった。だが、唇に訪れるはずの柔らかい感触は、いつまで経ってもやってこない。恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。

 レオは、私の膝から滑り落ちた恋愛小説の本を拾い上げ、その挿絵の姫君の唇に、そっと自らの唇を寄せていたのである。


「……まずは、あんたが何より愛してる、こいつ(物語)から、だろ?」


 呆然とする私の手を取り、彼は今度こそ、その甲に、まるで忠実な騎士のように敬虔な口づけを落とした。

「あんたへの口づけは、あんたがその本のヒロインじゃなく、俺の物語のヒロインになりたくなった時まで、とっておきますよ」


 悪戯っぽく片目をつぶって笑うと、レオは軽やかに立ち上がり、去っていった。

 一人残された私の元へ、警備役のコンラートが真剣な顔で駆け寄ってくる。

「お嬢様! ご無事でしたか! 今、庭師レオが不審な動きを! 本に口をつけるなど、よほど飢えているのでしょうか!? それとも、あれは呪術の一種で……!?」


 彼の心配は、もはや私の耳には届いていなかった。


 ***


 夜、自室に戻っても、私の混乱は収まらなかった。机の上には、白紙のままの『恋愛作法大全』第四章が置かれている。

 レオの行動。あれは、私の分類によれば「祝福的口づけ」に該当する。だが、違う。あの行為に含まれていた意味や感情は、そんな無味乾燥な類型では、到底説明できるものではなかった。

 学術的興味ではない。好奇心でもない。私の胸の内で荒れ狂っているこの感情は、紛れもなく、私個人のものだった。


 私は初めて、悟ったのである。

 私の「研究」は、現実の、たった一つの、予測不能な行動の前では、いかに無力で、無意味であるかを。


 ペンを握るが、何も書けない。『口づけの類型とその効果について』などという論文は、もはや私にとって、何の価値も持たなかった。

 私は立ち上がると、これまで書き溜めてきた分厚い『恋愛作法大全』を、机の引き出しの最も奥に、そっとしまった。鍵をかける音は、しなかった。ただ、もう二度と開けることはないだろう、と思った。


 小説の原稿に向き直る。私は、主人公たちの口づけのシーンを、綺麗に消し去った。

 代わりに、二人がただ静かに夕日を見つめ、不器用に、けれど確かに互いの指先が触れ合う、という場面を描いた。口づけ以上の何かが、その行間に満ちている気がした。


「理屈は、もういらない」


 開け放たれた窓から、涼やかな夜風が吹き込んでくる。

 私の知りたかったことは、どうやらあの分厚い本の、どこにも書かれていなかったようだ。

 私は初めて「研究者」としてではなく、ただの「セレスティナ」として、コンラートやレオ、そしてアンナとの、予測不能な明日を思った。

 私の物語は、どうやら、ここから始まるらしい。


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