第三十九章 盤外からの奇襲、あるいは侯爵令息の甘美なる毒
我が「禁忌回避シミュレーション」は、朴念仁という名の、あまりに素朴で、あまりに予測不能な研究対象を前に、見事なまでの敗北を喫した。それ以来、私の研究は、完全なる袋小路に迷い込んでいた。彼の思考回路は、いかなる悲恋物語の登場人物とも異なる、全く未知の論理で構築されているらしい。
そは、あたかも、複雑怪奇な数式を解くために、そろばん一丁で挑むが如き、無謀な挑戦であったのだ!
私が、書斎で自らの知的な敗北感に打ちひしがれている、ある冬の晴れた日の午後であった。アンナが、少し困惑したような顔で、来客を告げたのである。
「お嬢様、ジュリアン侯爵令息様が、何の予告もなく、お見えでございます」
奇襲。それは、まさしく奇襲であった。
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応接室には、暖炉の火が温かく燃えていた。護衛として控えるコンラートの、石像のように固い表情とは、実に対照的であった。
やがて、ジュリアン様が、アンナに案内されて姿を現した。彼は、相変わらず、洗練された物腰で、優雅に微笑んでいる。その手には、大げさな花束ではなく、古びた一冊の詩集が携えられていた。
「やあ、セレスティナ嬢。君が好きそうかと思ってね。先日、実に珍しい、古代の恋の詩集が手に入ったんだ」
彼は、私の知的好奇心をくすぐるように、その詩の内容や、作者の謎めいた生涯について、実に巧みに会話をリードする。私は、警戒しつつも、その知的な会話に、思わず引き込まれていく。コンラートは、その会話に全く入れず、ただ、部屋の隅で、苦虫を噛み潰したような顔で佇んでいるだけだった。
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会話の途中、ジュリアン様は、まるで何でもないことのように、こう言った。
「そういえば、近頃、アルビヌス先生が、屋敷に戻られているそうだね。先生の、悲恋物語に関する講義は、実に面白いと評判だ」
その言葉に、私の背筋が、すっと凍るのを感じた。
なぜ? 彼は、なぜ、わたくしが先生と悲恋物語の話をしていることを、知っているというのか。彼の情報網は、この屋敷の、私の書斎の、密室の中にまで及んでいるというのだろうか?
私の動揺を、彼は、楽しんでいるようであった。その美しい青い瞳を、悪戯っぽく細めて、続ける。
「しかし、ですな。悲劇の恋人たちが犯したという『禁忌』、それは、見方を変えれば、彼らが人間であったという、何よりの証左ではないかね?」
「……え?」
「計算ずくの恋など、それは恋ではなく、ただの駆け引き、盤上の遊戯にすぎない。本当の恋とは、愚かで、非効率で、禁忌を犯してでも、相手に手を伸ばしてしまう、そういうものではないだろうか?」
その言葉は、私の心に、甘い毒のように、じわりと染み渡った。
アルビヌス先生の教えとは、真逆。しかし、なんとロマンティックで、なんと魅力的な響きであろうか。私が、コンラートへの想いを律するために必死に築き上げた、「禁忌」という名の理論の壁が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
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「では、また近いうちに。その詩集の感想、楽しみにしているよ」
ジュリアン様は、そう言い残して、嵐のように、しかし、どこまでも優雅に去っていった。
残された応接室で、私は、完全な混乱状態に陥っていた。
アルビヌス先生は、「禁忌を犯すな」と言った。ジュリアン様は、「禁忌を犯してこそ、本物の恋だ」と言った。
一体、どちらが正しいというのか? そして、朴訥なコンラートは、この二つの理論の、一体どこに位置するというのだ?
マダム・キュピドンの新作。ヒロインは、恋愛の禁忌を恐れる臆病な自分と、禁忌を犯してでも愛に生きたいと願う奔放な自分との間で、激しく引き裂かれることになる。物語は、より複雑で、より深みを増していく。
「侯爵令息の言葉は、甘美なる毒であった。それは、私が必死に築き上げた、禁忌という名の防壁を、内側から、いとも容易く溶かしていく」
私は、手元に残された古い詩集と、部屋の隅で心配そうにこちらを見るコンラートの顔を、交互に見つめることしかできなかった。
「理論か、実践か。安全性か、情熱か。我が心の中の、ささやかなる代理戦争は、盤外からの奇襲によって、もはや、勝敗の行方すら見えぬ、混沌の極みに達したのである」




