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第三十六章 老賢者の帰還と、恋愛感情の哲学的分類法

 自らの原稿用紙の上で、自分自身の「恋」という、あまりに厄介な感情を発見して以来、私の頭脳は、かつてないほどの混乱の極みに達していた。

 私は、書庫からありったけの恋愛小説や詩集を引っ張り出してきた。しかし、そこに描かれている、燃え盛るような情熱や、身を焦がすような切なさといった、実にドラマティックな感情の数々と、私の胸の内にある、コンラートを思う時の、あの、ただ温かく、しかし、時折、きゅっと胸を締め付けるような、地味で、そして穏やかな感情とが、どうにも結びつかないのである。


 この胸を占める、正体不明の感情X。そは、いかなる公理にも当てはまらず、いかなる変数を用いても、その解を導き出すことができぬ。嗚呼、我が生涯における、最大にして最難の証明問題である!


 私が、この難問に頭を抱えていると、扉が控えめにノックされた。

「お嬢様、お父上様より伝言でございます。しばらくご実家の方で休暇を取られていた、アルビヌス先生が、本日、屋敷に戻られるとのことです」

「まあ! アルビヌス先生が!」

 アンナのもたらした報せは、まさに、暗中模索の海で溺れかけていた私にとって、天から差し伸べられた、一筋の蜘蛛の糸であった。


 ***


 アルビヌス先生。彼は、私が引きこもる以前、私の学問の全てを指導してくれた、かつての家庭教師であった。

 応接室で再会した先生は、以前と何一つ変わらぬお姿だった。銀色の髪に、小さな丸眼鏡。少し古めかしいが仕立ての良いフロックコートは、インクの染みか古書の埃かで、所々が味わい深い色合いになっている。彼は、私の姿を見るなり、その目を嬉しそうに細めた。

「おお、これはこれは、セレスティナお嬢様。しばし見ぬ間に、随分と深遠なる憂いをその瞳に宿されて。結構、実に結構。若者の魂は、かくも悩める緑の葦であるべきですな!」


 私の理屈っぽさの師とも言える先生との再会に、私は、希望の光を見た。この先生ならば、この混沌とした感情を、きっと美しい法則や定義に落とし込んでくれるに違いない!

 私は、自らの個人的な悩みであることなどおくびにも出さず、あくまで「純粋な知的好奇心」という、完璧な仮面をかぶって、先生に問いかけた。

「先生、お久しぶりでございます。実は、わたくし、最近、人の『感情』、特に『愛』と呼ばれるものの、その構造と分類法について、純粋な学術的興味を抱いておりますの。わたくしの知性を、さらに深めるため、ぜひとも先生にご教授願いたいのです」


「素晴らしい! お嬢様!」

 アルビヌス先生の瞳が、少年のようにキラリと輝いた。

「そは、万学の王たる哲学の、そのまた中心核に迫る、実に高尚なる探求心! よろしい、このアルビヌス、我が知識の全てをもって、お嬢様の知性の航海の水先案内人を務めましょうぞ!」


 ***


 書斎へと場所を移すや否や、アルビヌス先生の、実に楽しそうな大講義が始まった。

「ふむ、お嬢様。『愛』を分類するにあたり、我々はまず、古の賢人たちの偉大なる業績に敬意を表さねばなりますまい。例えば、かの賢人セレニウスが提唱した『魂の共鳴説』! これは、愛とは、二つの魂が、同じ調べで震える時に生じる、宇宙的な共鳴である、とする説です。理屈ではなく、魂の周波数が合うかどうか、ということですな!」

「魂の、周波数……」


「一方で、法務官マグナスは、実に現実的な『相互利益契約論』を断じています。すなわち、愛とは、子孫繁栄と家門の安定という、互いの利益を最大化するための、最も効果的な社会契約にすぎない、と。実に、夢も情緒もない話ですが、これもまた真理の一側面!」

「しゃ、社会契約……」


「さらに! 詩人オリヴィアは、その『美への憧憬説』の中で、こう謳いました。『愛とは、相手の持つ、肉体的、あるいは精神的な『美』に対する、尽きせぬ憧憬である』と。つまり、相手を一種の芸術作品として愛でる、という、極めて高尚な精神活動なのです!」

「げ、芸術作品……」


 私は、必死でメモを取る。コンラートへのこの気持ちは、魂の共鳴? それとも、彼に守られるという利益に基づいた社会契約? あるいは、彼の朴訥さという名の『美』への憧憬? 先生のありがたい講義は、私の頭脳を、より一層、複雑な迷宮へと追いやっていくのであった。


 ***


 老賢者の大講義が終わり、一人になった書斎で、私は、もはや自分が何に悩んでいたのかすら、分からなくなっていた。先生の帰還は、私の悩める心に光明を投じるどころか、より深く、より難解な、思考の迷宮へと、新たな扉を開いてしまっただけだったのである。


 しかし、作家としての私は、この混沌を、密かに喜んでいた。

 マダム・キュピドンの新作。ヒロインは、自らの恋心を、古代の様々な哲学に当てはめては、「わたくしのこの気持ちは、果たして『魂の共鳴』なのかしら、それとも、ただの『実利的な損得勘定』なのかしら…?」と、真剣に懊悩する。実に面倒で、人間味あふれるキャラクターとして、物語は新たな魅力を放ち始めるに違いなかった。


「老賢者の帰還は、結局、我が心の謎に、何一つ明確な答えを与えてはくれなかった。ただ、その謎が、いかに壮大で、いかに多くの先人たちを悩ませてきた、由緒正しき難問であるかを教えてくれただけである」


 私は、自らの恋の行方ではなく、その「哲学的分類」という、より高尚な問題に、心を躍らせていた。


「それでよい。いや、それがよいのだ。解けぬ謎であればこそ、探求する価値があるのだから! ……さて、まずは、あの魂との周波数は、一体、何ヘルツなのかしら?」


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