第三十五章 マダム・キュピドンの次回作と、物語が現実を追い越す時
舞踏会という名の嵐が過ぎ去り、私の屋敷には、春もたけなわの、穏やかな日々が戻ってきていた。庭の緑は日ごとにその色を深め、仲間たちとのささやかな日常は、極上のハーブティーのように、私の心を癒やしてくれた。創作意欲も完全に復活した私は、担当編集者から要求され、そして自分自身も向き合うと決めた「三角関係」をテーマにした、マダム・キュピドンの新作の執筆を再開した。
しかし、である。どうにも、ペンの進みが芳しくない。
我がペンから生まれ落ちるはずの登場人物たちが、近頃、どうにも反抗期であるらしいのだ。私が右へ行けと命じれば、彼らは左へ行き、私が「愛している」と囁かせようとすれば、彼らはむっつりと黙り込んでしまう。これは、一体どういうことか。物語の神は、ついに、この私を見放してしまったというのか?
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私の描く物語の中のヒロインは、二人の魅力的な男性の間で、その心を揺らしていた。
一人は、キラキラと輝き、甘い言葉を囁くが、その本心は決して見せない、謎めいた貴公子。
もう一人は、口下手で不器用だが、いつも黙って側にいてくれ、絶対的な安心感を与えてくれる、朴訥な騎士。
私は、ヒロインの心の動きを、インクにのせて描写していく。
騎士の、ぶっきらぼうな優しさに、胸が温かくなるヒロインの感情。
貴公子の、全てを見透かすような瞳に、恐怖と、抗いがたい興味を同時に抱くヒロインの混乱。
そして、「この胸のざわめきは、一体何なのだろう?」と、自分自身の感情を持て余し、夜も眠れずに、ただ窓の外を眺めるヒロインの姿。
書きながら、私は、強烈な既視感に襲われていた。
この感情の揺れ動きは、どこかで……? いや、まさか。これは、マダム・キュピドンたる私が、ゼロから創造した、純粋なフィクションのはずである。私は、そう思い込もうとしていた。
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物語は、クライマックスへと差し掛かっていた。
ヒロインは、自分でも気づかないうちに、朴訥な騎士のことばかりを考えている自分に気づくのだ。華やかな貴公子からの手紙を読んでいても、その心は上の空で、窓の外で剣の稽古をする騎士の姿を、無意識に目で追ってしまう。彼のことを考えると、胸が苦しいような、温かいような、不思議な気持ちになる。
そして、私は、ヒロインの口を借りて、その感情に名前を与える、決定的な一文を、羊皮紙の上に書き記した。
『ああ、そうか。これが、恋というものなのだ』
その一文を書き終えた瞬間。
私のペンが、ぴたり、と止まった。私は、雷に打たれたように、全身が震えるのを感じた。
今、私が書いたヒロインの感情。
貴公子(ジュリアン様)という名の、不可解な惑星に心を乱されながらも、常に自分の心を占めているのは、あの不器用で、誠実な守護騎士の姿であるという、このどうしようもない事実。
それは、他の誰のものでもない。この、私自身の、心の形そのものであった。
物語が、現実の私の、まだ自覚していなかった「恋心」を、私自身に、無慈悲にも突きつけてきたのだ。
私は、マダム・キュピドンとして、自分の恋を、初めて言語化してしまったのである。
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私は、顔を真っ赤にして、書き上げたばかりの原稿を、胸に強く抱きしめた。頭は混乱しているが、不思議と、嫌な気持ちはしない。むしろ、長年の謎が、すとんと腑に落ちたような、そんな静かな感覚があった。
そこへ、お茶を運んできたアンナが、私の様子がおかしいことに気づいた。
「お嬢様、どうかなさいましたか? お顔が、林檎のように真っ赤でございますが」
「な、何でもありませんわ! そ、その、マダム・キュピドンの新作が、大変な傑作になりそうだという、ただ、それだけのことです!」
私は、必死でそうごまかした。
アンナが去った後、私は、そっと窓の外を見る。そこには、いつものように、黙々と警備の任にあたるコンラートの姿があった。私の目に映る彼は、もはや、ただの「守護騎士」や「研究対象」ではなかった。
「物語が、現実を追い越してしまった。いや、あるいは、物語こそが、私が目を背けていた現実を、暴き出したのかもしれない。マダム・キュピドンは、ついに、自らの原稿用紙の上で、自分自身の『恋』を発見してしまったのである」
私は、生まれて初めて知る、この甘くて苦しい感情を、一体、どう分析し、どうマニュアル化すべきか、本気で悩み始めるのだった。
「なんと、厄介で、面倒で、そして、どうしようもなく、胸が躍る、新たなる研究対象であろうか」




