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第三十三章 壁際の騎士と、グラスに映るそれぞれの夜空

 壁際の騎士、コンラートは見ていた。

 先ほど、自らの主君、セレスティナ嬢が、見たこともないような、挑戦的な笑みを自分に向けてきたのを。その笑みの意味を測りかね、彼はただ、柱の影で戸惑うばかりであった。


 彼の目には、これまで見たことのない主君の姿が映っていた。

 引きこもっていた頃の、か弱い面影はない。彼女は、あの夜空色のドレスをまとい、ジュリアン侯爵令息や、他のきらびやかな貴族たちと、堂々と渡り合っている。その姿は、誇らしかった。心の底から、誇らしかった。しかし、同時に、胸の奥を、ちくりと刺すような、小さな寂しさを感じずにはいられなかった。

 自分が知らない洗練された会話。自分には見せたことのない華やかな笑顔。彼女が、自分の知らない、遠い世界の住人になってしまったかのような、そんな言いようのない疎外感が、彼の心を支配し始めていた。


 ***


 コンラートは、自らの役目に徹した。ただひたすら、お嬢様に危険が及ばぬか、不埒な輩が近づかぬか、その一点に全神経を集中させる。他の騎士たちと儀礼的な挨拶を交わすが、その心は、常に、喧騒の中心で輝く、あの青い星に向けられていた。

 通りかかったウェイターから、彼は、思わずジュースの入ったグラスを受け取った。その無骨な手に、優雅なカットの施されたグラスは、ひどく不似合いに見えた。

 グラスの表面に、遠くで談笑するセレスティナの姿が、小さく、そして歪んで映り込んでいる。彼は、そのグラスの中の、揺らめく「夜空」を見つめながら、彼女との距離を実感していた。自分がいるべき場所は、汗と土の匂いがする訓練場や、静かな屋敷の庭だ。この、偽りの光と、虚飾の会話が渦巻く世界ではない、と。


 ――その頃、遠く離れたクラインフェルト伯爵邸の庭では。

 庭師のレオが、一人、ベンチに座って、本物の夜空を見上げていた。舞踏会に行っている主人たちのことを、ぼんやりと考えていたのだ。

「お嬢様のことだから、今頃、会場の隅で壁の花になって、お菓子ばっかり食べてなきゃいいけどな……いや、案外、あの調子でどこぞのボンボンを、理屈で言いくるめてたりしてな」

 彼は、そう独りごちて、くすりと笑った。

 しかし、舞踏会で出会ったという「ジュリアン侯爵令息」の存在を思い出すと、その笑みは、ふっと掻き消えた。

「……まあ、あんな綺麗な人が、放っておかれるわけねえか」

 その呟きには、軽口とは裏腹の、どうしようもない寂しさが滲んでいた。彼は、自分とセレスティナとの間にある、決して越えられない「身分」という名の壁を、誰よりも理解している。

 彼は、庭の水桶の水面に映る、本物の星々を見つめて、もう一度、呟いた。

「どんなに着飾ったって、お嬢様は、俺たちと泥んこになって遊んでた、あの頃のお嬢様なんだけどな」


 ***


 舞踏会場で、コンラートは、グラスの中の歪んだ夜空を見るのをやめた。顔を上げ、もう一度、本物のセレスティナの姿を、その真っ直ぐな瞳で、ただ、じっと見つめる。

 たとえ、世界が違おうとも。たとえ、彼女がどんなに遠い星になろうとも。自分の役目は、ただ一つ。何があろうと、彼女を守ることだ。自分は、地上から彼女を見守り続ける、北極星なのだから。彼は、そう、決意を新たにした。


 やがて、長い夜が終わりを告げ、舞踏会がお開きの時間となった。人々が次々と会場を後にする中、コンラートは、壁際で、ただひたすらに彼女を待っていた。

 やがて、少し疲れた、しかし、充実した表情のセレスティナが、彼の元へ戻ってきた。

「コンラート、お待たせいたしました。帰りましょう、私たちの屋敷へ」


 彼女の、その「私たちの屋敷へ」という言葉に、コンラートは、自分がまだ彼女と同じ世界にいることを確認し、心の底から、静かに安堵するのであった。


 王宮の舞踏会で、壁際の騎士が見ていたグラスの中の夜空。

 屋敷の庭で、庭師が見上げていた水面に映る夜空。

 そして、その夜空そのものである令嬢は、二人の男が、それぞれの場所から、それぞれの想いで自分を見つめていることなど、まだ知る由もなかった。

 ただ、帰るべき場所へと導いてくれる、揺るぎない北極星の存在だけを、その夜は、確かに感じながら。


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