第三十二章 再会の円舞曲と、仮面の裏に隠されしゲームのルール
コンラートの、不器用だが、揺るぎない腕に支えられ、私は、ようやくこの星々の海の呼吸法を会得した。落ち着きを取り戻した私の目に映る舞踏会の光景は、もはや恐怖の対象ではなく、尽きせぬ興味の源泉へと姿を変えていた。
そうだ。舞踏会とは、巨大なる観察実験室なのである。人々は、本音という名の素肌を、礼節という名のドレスの下に隠し、笑顔という名の仮面をつけて、互いの腹を探り合う。なんと滑稽で、なんと知的好奇心をそそる光景であろうか!
私は、コンラートという名の、絶対的な安全地帯から、この優雅なる人間模様を分析し、心の内で批評を加えることに、密やかな愉悦を感じ始めていた。この甘い考えが、数分後には、木っ端微塵に打ち砕かれるとも知らずに。
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私が、少し離れた場所で、扇を片手に令嬢たちと談笑するジュリアン侯爵の姿を観察していると、ふと、彼と目が合った。彼は、優雅に微笑むと、人混みを、まるで水面を滑るが如くすり抜けて、再び私の元へとやってきた。
「セレスティナ嬢、少し夜風にあたらないか? テラスでなら、もう少し静かにお話ができる」
その誘い方は、断ることを想定していないかのように、自然で、そして少し強引であった。
私は、彼の真意を探りたいという好奇心に抗えず、「大丈夫ですわ」とコンラートに目配せをし、その誘いを受けた。彼は、実に心配そうな顔をしていたが、何も言わずに一礼した。
月明かりが照らすテラスは、喧騒から切り離された、静かな空間であった。庭園の花々の香りと、春の夜の心地よい風が、火照った頬を優しく撫でる。
他愛のない世間話の後、ジュリアン様は、唐突に、しかし、その声色は変えぬまま、こう問いかけた。
「君は、この舞踏会をどう見ている? 退屈な義務かい? それとも、刺激的なゲームかい?」
それは、私がただの引きこもり令嬢ではないことを、完全に見抜いているかのような、挑発的な問いであった。
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私が答えに窮していると、ジュリアン様は、星空を見上げながら続けた。
「僕にとって、この世界は、少し退屈すぎるゲームだった。誰もが、同じルールで、同じ駒を動かす。でも、君は違う。君は、このゲームに、全く新しいルールを持ち込もうとしているように見える。……まるで、マダム・キュピドンの物語のようにね」
その言葉は、雷鳴のように、私の心を貫いた。
マダム・キュピドン。私の、最大の秘密。それを、なぜ、彼が。
私は、必死で平静を装おうとしたが、指先が微かに震えるのを、止めることはできなかった。
ジュリアン様は、そんな私の動揺を見て、楽しそうに、実に楽しそうに笑う。
「このゲームのルールは簡単さ。仮面をつけ、本音を隠し、望むものを手に入れる。だが、最も重要なルールが一つだけある」
彼は、私に向き直り、その美しい青い瞳で、真っ直ぐに私を見つめて言った。
「――決して、ゲームの駒に、本気で恋をしてはいけない、ということさ」
彼は、そう言うと、私の手を取り、その甲に、まるで誓いを立てるかのように、そっと口づけをした。
「君は、どちらのプレイヤーかな? それとも、ゲームそのものを壊しに来たのかい?」
その言葉は、忠告のようでもあり、挑戦状のようでもあった。
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「また会おう、マダム」
ジュリアン様は、謎めいた言葉を残して、再び舞踏会の喧騒の中へと、優雅に消えていった。
一人残された私の心には、恐怖と、それ以上の、燃え上がるような闘志が生まれていた。彼は、私の正体を知った上で、私を試しているのか? それとも、彼自身も、何かから逃れるために「ゲーム」をしているのか?
もはや、この舞踏会を、ただの観察対象として傍観することは、私には許されない。私もまた、この「ゲーム」のプレイヤーとして、彼の謎に挑まなくてはならないのだ。
マダム・キュピドンの新作。ヒロインは、ただ二人の男性の間で揺れ動くだけの存在ではなくなった。彼女は、自らの意志で、社交界という舞台で繰り広げられる恋愛の「ゲーム」のルールを学び、時に相手を出し抜き、自らの望む結末を手に入れようとする、より主体的で、したたかな女性として、描かれ始める。
「仮面の裏に隠されたゲームのルール。彼は、私にそう囁いた。ならば、こちらも、それに相応しい仮面をつけ、この盤上に立とうではないか」
私は、会場の入り口近くで、心配そうにこちらを見つめるコンラート――我が北極星に、これまで見せたことのない、挑戦的な笑みを返した。
「煌めく星々の海は、もはや、ただ泳ぐべき場所ではない。それは、私が勝利すべき、次なる物語の舞台なのである」




