第三十章 マダム・キュピドンの決断と、インクに込める本当の想い
春の夜の、少しだけひやりとした空気が、開け放たれた窓から流れ込んでくる。明日は、いよいよ、あの王宮舞踏会。私の前には、書きかけの、「三角関係」をテーマにした、マダム・キュピドンの新作の原稿が、白く広がっていた。しかし、最後の結末だけが、どうしても書けずにいる。
担当編集者の言う「定石」も、読者の求める「展開」も、今の私にはしっくりこない。ジュリアン、コンラート、レオ……現実のモデルたちの顔が浮かび、物語の登場人物たちが、もはや作者である私の意のままに動いてはくれないのだ。
物語の結末。それは、混沌たる世界に、作者という名の神が下す、最後の審判である。誰を幸福にし、誰を退場させるのか。かつての私ならば、いとも容易く、最も甘美なるハッピーエンドという名の免罪符を与えたであろう。しかし、今の私には、そのペンが、まるで鉛のように重いのだ。
私は、この物語に決着をつけることが、明日、自らが舞踏会という「現実の物語」に一歩を踏み出すための、最後の儀式であるように感じていた。
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私はペンを置き、暖炉の残り火が静かに揺れるのを、ただ、ぼんやりと眺めていた。
このおよそ一年、私は、一体何を学んできたのだろうか。
廊下の角での衝突実験、手紙のインクの香り、嫉妬の愚かな試み、物理学で解明しようとしたワルツ……。我が『恋愛作法大全』に記された、滑稽で、的外れで、しかし必死だった「研究」の数々。それらは、私を、頑なだった函の外へと連れ出してくれた、愛おしい第一歩であった。
市場での買い食い、風邪の日の看病、夏祭りの花火、誕生日のサプライズパーティー……。理屈では説明できない、人の心の温かさ、共に過ごす時間の、何にも代えがたい豊かさ。
そして、ジュリアン侯爵という名の、予測不能な変数。彼の登場によって、私の平穏な世界は、いかに複雑で、いかに不可解で、そして、いかに面白いものであるかを、私は知ったのだ。
私が追い求めていた「恋愛の法則」や「最適解」など、この世のどこにも存在しなかった。存在したのは、ただ、一人ひとり異なる、不器用で、矛盾に満ちた、そして、だからこそ愛おしい「人の心」だけだったのである。
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私は、再び、机に向かった。その瞳には、もう、迷いの色はなかった。
私は、ペンを取り、物語の結末を、一気に書き上げた。
彼女が描く結末は、単純なものではない。
ヒロインは、強引なヒーローと、献身的なライバルの、どちらか一方を単純に選んだりはしない。
彼女は、ライバルに対して、恋愛ではない、深い友情と敬意を示す。彼の夢を応援し、友人としての道を、共に歩むことを選ぶ。
そして、ヒーローに対しては、「恋人」という関係をすぐに求めるのではなく、「まず、あなたのことを、もっと知りたいのです」と告げる。共に散歩し、語り合い、何でもない時間を共有することから始めよう、と提案する。
それは、情熱的なロマンスや、運命的な恋物語ではない。
信頼、尊敬、そして穏やかな日常の積み重ねの中にこそ、本当の愛が育まれるのだという、私がこの一年間で学んだ、新しい「愛の形」の提示であった。
マダム・キュピドンは、甘々で夢のような恋愛小説家から、より深く、リアルな人間関係を描く作家へと、この瞬間、完全に変貌を遂げたのだ。
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物語を書き終えた私は、晴れやかな、しかし少しだけ寂しいような、不思議な気持ちに包まれていた。
そこへ、夜食のミルクティーを持ったアンナが、静かに入ってきた。
私は、彼女の顔を見て、穏やかに、しかし、はっきりとした声で言った。
「アンナ、わたくし、明日、舞踏会へ行きます。もう、逃げませんわ」
アンナは、何も言わなかった。ただ、その目に、美しい涙の膜が張るのを、私は見た。彼女は、深く、深く、頷いた。
私は、窓の外を見上げた。春の夜空には、穏やかな月が浮かんでいる。
舞踏会で、ジュリアン様に会うだろう。コンラートが、きっと傍で守ってくれるだろう。レオは、どんな顔で私のドレス姿を見るだろうか。
その予測不能な未来に、私は、恐怖ではなく、確かな期待を感じていた。
「マダム・キュピドンの物語に、私は、最後のピリオドを打った。インクに込めたのは、甘い恋の魔法ではない。ただ、不器用に、懸命に、人と人が向き合うことの、ささやかな尊さであった」
そして今、私の前には、真っ白な、まだ何も書かれていない新しい原稿用紙が広がっている。
「――セレスティナ・フォン・クラインフェルトの、現実という名の物語。さて、その最初の1ページには、一体、どのようなインクを落とすべきであろうか」
私は、明日のための夜空色のドレスを横目に、静かに微笑むのだった。




