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第三章 嫉妬感情の惹起に関する考察

 邂逅を果たし、書簡を交わし、我が小説の主人公たちの関係は、あたかも順風満帆な航海の如く、穏やかに進んでいた。その原稿を前に、私はしかし、どうにも形容しがたい物足りなさを感じていたのである。穏やかすぎる。あまりにも平坦すぎるのだ。これではまるで、砂糖水に浸したパンのような味気ない物語ではないか。


「いけない! このままでは、読者はあまりの退屈さにあくびを噛み殺し、やがては昏倒してしまうやもしれませんわ!」


 長椅子に突っ伏して嘆く私に、アンナがそっと肩掛けを差し出した。

「お嬢様、またお悩みでございますか。物語とは、必ずしも波乱万丈である必要はないかと存じますが」

「アンナ、あなたはわかっていない! 恋愛がもし料理であるならば、甘いだけの菓子は三日で飽きるのです! 必要なのは、ピリリとした刺激、舌の上で弾ける情熱の火花、すなわちスパイスなのですわ!」


 私は書庫『叡智の迷宮』へと駆け込み、古今東西の悲劇や大衆小説を再び紐解いた。そして、ついに発見したのである。物語に深みと情熱を与える、その根源的なるスパイスの名を。

 詰まるところ、それは「嫉妬」に他ならない。


 嫉妬とは、愛の裏返しであり、己の所有欲を再確認するための、いわば精神的な『試金石』なのである。これなくして、真の愛は証明され得ない! 私はこの、人類普遍の感情を人為的に発生させ、そのメカニズムと効果を学術的に検証するという、前人未到の実験に着手することを決意した。


「お嬢様、それはあまりにも悪趣味ではございませんか……?」

 私の計画を聞いたアンナが、初めて見るような、心底憂慮に満ちた表情で言った。

「必ずや、火傷をなさいますよ」

「案ずることはありません、アンナ。これは純然たる学術的探求なのです。感情に流されず、冷静にデータを収集するだけですわ」


 アンナは、何か言いたげに唇を噛んだが、やがて深いため息とともに沈黙した。その沈黙が、嵐の前の静けさであることを、この時の私はまだ知る由もなかったのである。


 ***


 我が自室『作戦司令室』の壁には、たちまちにして新たな計画図が貼り出された。その名は、実に物々しい『嫉妬感情惹起オペレーション』。骨子は、二人の実験対象――コンラートとレオに対し、それぞれ「別の男性の影」を巧みにちらつかせ、その心理的動揺を観察・記録するというものである。


【作戦A:対コンラート用】

 ・目的: 朴訥なる騎士に、好敵手ライバルの存在を認識させ、焦燥感を惹起する。

 ・手法: 彼の前で、意図的に庭師レオを賞賛する。


【作戦B:対レオ用】

 ・目的: 自信家の庭師に、自身にはない魅力を持つ男の存在を突きつけ、独占欲を刺激する。

 ・手法: 彼に聞こえるように、騎士コンラートの頼もしさを賞賛する。


 我ながら、完璧な作戦であった。この二つの実験を通して得られるデータは、マダム・キュピドンの新たな傑作を生むための、貴重な礎となるに違いなかった。


 ***


 作戦は、翌日から早速実行に移された。

 まずは、剣の訓練に励むコンラートのもとへ。私は優雅に日傘を差しながら、彼の力強い剣戟を眺めていた。

「素晴らしいわ、コンラート。あなたの剣は、本当に頼もしいですわね」

「もったいなきお言葉!」

 汗を光らせる彼に、私はさりげなく嫉妬の種を蒔いた。

「でも、庭師のレオも言っていたわ。力だけでは、美しい薔薇の繊細な棘は扱えないって。時には、しなやかな柔軟さも必要よ、と」


 私の言葉に、コンラートは一瞬、戸惑ったように眉を寄せた。よし、効果ありか! と私が内心でガッツポーズをした、その時であった。

「……庭師レオの言う通りです。俺は、力にばかり頼りすぎていたのかもしれない。お嬢様、ありがとうございます! 明日から、柔軟性を鍛えるための訓練も、稽古に取り入れようと思います!」

 彼は、実に晴れやかな顔でそう宣言した。

 違う、そうじゃない! 私が求めているのは、君の自己成長ではなく、仄暗い嫉妬の炎なのである!


 次に、庭園で薔薇の手入れをするレオのもとへ。私はアンナと散策する体で、彼に聞こえるように言った。

「このお庭も美しいけれど、やはりコンラートのような屈強な騎士が守る城壁の内側こそが、最も安心できる場所ですわね」

 私の声に、レオは手を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。いつもの軽薄な笑みが、その口元から消えている。彼は私の目をじっと見つめて、こう言った。

「お嬢様。どんなに屈強な騎士だって、お嬢様の心の壁までは守れませんぜ」

「……なんですって?」

「その壁を、花一輪で軽々と越えてみせるのが、俺みたいな男の仕事なんでね」

 彼はそう言うと、不敵な笑みを浮かべた。嫉妬を見せる代わりに、より直接的なる挑戦状を叩きつけてきたのである。私は狼狽し、その場から逃げるように立ち去るしかなかった。


 その日の夕刻。私がお茶を飲んでいると、アンナが、実に疲れた顔で報告に来た。

「お嬢様……申し上げにくいのですが」

「なんですの?」

「本日、騎士コンラート様より『お嬢様は、俺の剣に何かご不満なのだろうか』と、庭師のレオからは『お嬢様は、僕の仕事がお気に召さないのかな』と、それぞれ個別にご相談を受けまして。お二人の間を行ったり来たりしているうちに、わたくしの胃に穴が開きそうでございます」


 なんと。私の緻密なる実験は、被験者たちに嫉妬を惹起する代わりに、第三者たるアンナの心労を最大化するという、全く予期せぬ副作用をもたらしていたのである。


 ***


 私は、自らの行いの浅はかさを、ようやく自覚した。人の心とは、特に嫉妬という感情は、フラスコの中の化学反応のように、単純な方程式では到底測れない、複雑怪奇な代物だったのだ。

「わたくし……少し、やりすぎたようですわ。人の心を試すなど、何様のつもりだったのでしょう」

 私が珍しく素直にそう呟くと、アンナは「お分かりいただけたようで、何よりでございます」と、これまでで一番優しい声で言い、とっておきのカモミールティーを淹れてくれた。


 その夜、私は『恋愛作法大全』の第三章に、震える手でこう書き記した。

『結論。嫉妬とは、劇薬である。安易に他者に処方しようと試みるは、愚者の極み。それは、自らの心の在り様を暴き出す、危険な鏡に他ならない』


 そして、小説の原稿に向き直った。安易な嫉妬のイベントを書き加えるのはやめた。代わりに、公爵令嬢イザベラが、騎士団長アレクシスが実は詩を好むという、彼の知らない一面を知る場面を書き加えた。そこに生まれるのは、嫉妬ではない。小さな戸惑いと、深い尊敬の念。それこそが、より本質的な心の揺らぎであるように思えた。


 嫉妬などという小細工は不要だったのだ。ただ、相手を深く知ること。それこそが、最も心を揺さぶるのだから。

 私は、恋愛のより本質的な部分に、ほんの少しだけ近づけた気がして、静かに微笑んだ。

 そして、思う。相手を知るためには、やはり、二人きりで時を過ごすことが必要なのではないだろうか、と。


 次なる研究テーマが、私の脳裏に、おぼろげながら形を結び始めていた。

 そう、それは「デート」である。


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