第二十九章 氷解の雫と、来たるべき春のためのドレス選びに関する一考察
長く、厳しい冬が、ようやく終わりの気配を見せ始めていた。屋敷の屋根の縁からは、ぽつり、ぽつりと、雪解け水が滴り始め、その音は、春の足音のように私の耳に届いた。私は窓辺に佇み、その音を聞きながら、冬の森に残された、あの不可解な真紅の薔薇について、未だ解けぬまま思いを巡らせていた。ジュリアン侯爵の真意は、一体どこにあるのか。
そんな思索に耽る私の背後から、アンナが、実に現実的な響きを伴った声で言った。
「お嬢様、春の王宮舞踏会まで、もう一月もございません。そろそろ、お召しになるドレスをお決めになりませんと」
氷解の雫は、春の訪れを告げる、優しき合図である。しかし、それは同時に、舞踏会という名の、避けがたき審判の日が近づいていることを知らせる、冷徹なるカウントダウンでもあった。ああ、春とは、かくも希望と絶望をないまぜにして、やってくるものなのか!
私は、心の内で渦巻く恐怖心を振り払うように、高らかに宣言した。
「そうですわね。戦いには、まず、それに相応しい鎧が必要です!」
ドレス選びという名の、戦闘準備が、こうして始まったのである。
***
屋敷の一室は、アンナが王都から取り寄せた、最新のドレスのデザイン画や、色とりどりの布地の見本で、たちまちのうちに埋め尽くされた。
しかし、私は、ただ「綺麗」という、そのあまりに曖昧な基準でドレスを選ぶことなどできなかった。
「アンナ、見てください。この真紅のドレスは、情熱を物語る一方で、見る者に警戒心を抱かせる危険な色です。そして、この純白のドレスは、無垢を装いながらも、最も計算高い色とも言える。ドレスとは、いわば、着用者の思想を雄弁に物語る、声なき宣言なのです!」
私の、記号論や色彩心理学に基づいた、実に面倒な考察に、アンナは「さようでございますか」と、静かに頷くだけであった。
いくつかのドレスを試着してみる。しかし、鏡に映る自分の姿に、どうにもしっくりこない。
華やかすぎるドレスは、まるで借り物のようで、自分がドレスの持つ強さに負けてしまう気がする。かといって、地味すぎるドレスは、舞踏会の会場で壁の花になる、私の暗い未来を暗示しているようで、気が滅入るばかりであった。
***
私がドレス選びに難航していると、アンナに呼ばれたのか、コンラートとレオが、部屋の入り口から、恐る恐る中を覗き込んでいた。
アンナは、そんな二人を見やると、最後に残しておいた一着のドレスを、私に差し出した。
それは、最先端の流行を追ったものではなく、一見するとシンプルなデザイン。しかし、その生地は、星月夜を思わせる、深く、美しい藍色をしていた。そして、裾には、まるで天の川のように、銀糸の繊細な刺繍が、きらきらと施されていた。
私がそのドレスを身にまとい、姿見の前に立った瞬間、部屋の空気が、ふ、と変わった気がした。
レオが、いつもの軽口を忘れ、息をのむ。
「……すげえ。いや、なんつーか……ただ綺麗なだけじゃなくて、お嬢様ん中の、静かなとことか、賢いとことか、全部、その色に溶けてるみたいだ」
それは、柄にもなく、詩的な感想であった。
コンラートは、何も言えないようだった。ただ、その黒い瞳を大きく見開き、顔を少し赤らめながら、私の姿から、目を離せずにいる。その沈黙は、どんな賛辞よりも、雄弁に、私の胸に響いた。
そして、アンナが、満足そうに微笑んだ。
「お嬢様。お似合いです。これこそ、今のお嬢様に、最も相応しいドレスでございます」
仲間たちの、偽りのない、温かい眼差し。その「鏡」に映った自分の姿を見て、私は初めて、心から「これが、わたくしだ」と思えた。
もはや、ただ怯える引きこもり令嬢ではない。華やかさで自分を偽る必要もない。静かで、思索的で、けれど内に秘めた輝きを持つ、一人の女性「セレスティナ」として、舞踏会に臨む決意が、私の胸に、静かに灯った。
***
ドレスは、その深い藍色のドレスに決定した。
不思議なことに、着るべき一着が決まった瞬間から、舞踏会が、ただの恐怖の対象ではなく、今の自分を試すための、そして、もしかしたら楽しむことすらできるかもしれない「舞台」であると、前向きに捉えられるようになった。
マダム・キュピドンの新作。これまであまり描かれなかった、ヒロインの衣装に関する描写が、格段に豊かになった。ドレスの色や形が、ヒロインの心境や決意を象徴する、という、より高度な表現技法が、私のペンから、自然と生まれ落ちるようになったのだ。
「ドレスとは、鎧であった。しかし、それは、弱さを隠すためのものではない。ありのままの自分を肯定し、胸を張って戦場に赴くための、美しき戦闘服なのである」
来たるべき春、私は、この夜空の色をまとって、予測不能な惑星たちが渦巻く、華やかな宇宙へと、一歩を踏み出すのだ。
屋敷の窓を伝う氷解の雫が、きらりと光った。それは、長い冬の終わりと、新たな物語の始まりを告げる、優しい涙のように見えた。




