第二十六章 書斎における密室談義と、恋愛感情の定量化に関する試み
ジュリアン侯爵という名の、予測不能な軌道を描く新惑星が、我が小宇宙に闖入して以来、私の心の平静は、実に無残に掻き乱されていた。彼の不可解な言動を思い出すたび、私の心には、興味か、警戒か、あるいは全く別の何か、名状しがたい感情の揺らぎが生じるのである。
これはいかなる現象か? この感情の正体を突き止めねば、夜も安らかには眠れない。
「そうだわ! 感情を数値化・定量化するのです! そうすれば、この心の乱れも、いずれは美しい数式で表現できるに違いない!」
かくして、人類史上、最も愚かで、最も壮大な試みは、静かな冬の屋敷の、私の書斎で、ひっそりと幕を開けた。私は、再び『恋愛作法大全』を手に取り、最も難解なセクションとして、新たに「感情測定編」の執筆に着手したのであった。
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研究の第一歩は、データの収集である。私は、アンナ、コンラート、レオを一人ずつ書斎に呼び出し、自ら作成した「感情を測定するための質問票」に基づき、密室談義、すなわちインタビューを敢行した。
第一の被験者は、レオであった。
「レオ、異性に対し『魅力的』と感じる要素を、重要度順に述べなさい」
「えー? そりゃあ、一緒にいて楽しいのが一番でしょ。あとは、美味い飯作ってくれるとか、笑顔が可愛いとか、そんなもんですよ」
実に単純明快。しかし、学術的データとしては、あまりに情緒的すぎて不適格であった。
第二の被験者は、コンラート。彼は、私が「これは、屋敷の将来に関わる、極めて重要な任務です」と前置きしたせいで、何か重大な任務だと勘違いしているようであった。
「コンラート、『嫉妬』という感情を、色で例えるなら、何色だと思いますか?」
彼は、眉間に皺を寄せ、腕を組み、実に五分間も黙考した末、こう答えた。
「……嫉妬は、騎士の持つべき感情ではない。よって、色はない」
質問の意図が、全く伝わっていなかった。
最後の被験者は、アンナである。彼女は、私の意図を半ば見抜いているのか、呆れたような、それでいて慈しむような目つきで、私の問いに答えた。
「アンナ、あなたが思う、最も尊い『愛』の形とは、どのようなものかしら?」
「さようでございますねえ。わたくしは、ただ、お相手の幸せを、自分のことのように喜べる。それが、一番ではないかと思いますわ」
その答えは、実に真っ当で、実に深く、そして、私の奇妙な研究を、根底から覆すような響きを持っていた。
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三者三様のインタビューを終え、私は、集まった「データ」を前に、頭を抱えていた。レオの答えは本能的すぎ、コンラートの答えは観念的すぎ、そしてアンナの答えは、あまりにも完成されすぎていて、何の法則性も見出せない。
「なぜです! 同じ問いに対し、これほどまでに回答が分岐するとは! これでは、定量化など夢のまた夢……!」
私が混乱していると、お茶を運んできたアンナが、静かに言った。
「お嬢様。人の心というものは、物差しで測ったり、天秤にかけたりするものではございませんでしょう」
その言葉は、私の胸に、すとんと落ちた。
「だからこそ、人は悩み、そして、だからこそ、愛おしいのだと、わたくしは思いますわ」
そうだ。私はまた、いつもの過ちを犯していたのだ。人の心という、最も非効率で、最も理屈の通じないものを、無理やり数式や法則に当てはめようとしていた。
ジュリアン様への感情も、コンラートやレオへの感情も、単純な数値で表せるものではない。その複雑さ、曖昧さそのものを、私は受け入れるしかないのだ。
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その夜、私は、書きかけだった『恋愛作法大全・感情測定編』のページを、自らの手で、書斎の暖炉の火にくべた。紙が燃えて、くるりと丸まり、やがて一握の灰になる様子を、私は静かに見つめていた。
感情は、分析し、制御するものではない。ただ、感じ、味わうものである。その混沌の海に、恐れず飛び込む勇気こそが、人生という物語を豊かにするのだ。
マダム・キュピドンの新作。登場人物たちは、もはや自分の感情を「恋」や「友情」といった、既成の言葉で定義しようとしない。彼らは、名付けようのない複雑な感情に戸惑い、悩み、それでも懸命に相手と向き合おうとする。その姿は、これまで以上にリアルで、読者の心を揺さぶるものとなるに違いなかった。
「恋愛感情の定量化という、人類史上、最も愚かで、最も壮大な試みは、こうして一握の灰と化した。我が心の乱れを表す数式は、ついぞ見つからなかった。しかし、それでよいのだ」
私は、窓の外でしんしんと降りしきる雪を眺めながら、思う。
「人生という名の、この面白くて厄介な物語は、どうやら、解答用紙のないテストのようなものらしい」