第二十五章 初雪と、招かれざる再訪者のための防衛マニュアル
晩秋の冷たい雨が、いつしか白い結晶へと姿を変え、その年初めての雪が、音もなく舞い始めた。私は窓辺に佇み、世界が静かに白く塗り替えられていく光景に、しばし見入っていた。
初雪。それは、冬という名の長い物語の、静かなる序章である。世界は、これから白き沈黙に覆われていくのだ。願わくば、この平穏が、春まで続かんことを。
しかし、私のささやかな願いは、アンナがもたらした一通の緊急の報せによって、無慈悲にも打ち砕かれた。
「お嬢様、大変にございます! ヴァレンシュタイン伯母様が、ジュリアン侯爵令息様をお連れになって、こちらへ向かっていると……!」
「なんですって!?」
私は、耳を疑った。伯母様と……ジュリアン様が、ご一緒に!? なんという、悪夢の組み合わせですの! 彼を伴って来るということは、あの縁談話を外堀から埋め、強引にまとめるつもりであることは、火を見るよりも明らかであった。
私は、以前の苦い記憶を思い出し、拳を固く握りしめた。
「今度こそ、完璧な『防衛マニュアル』を作成し、この二重の脅威を、完璧に迎え撃つのです!」
***
私の号令一下、緊急作戦会議が招集された。
「皆様、緊急事態です! 等級Aの脅威(伯母様)が、新たに等級不明の随伴機(ジュリアン様)を伴い、当領土に侵攻中です!」
対策を練るため、私はまず、新たなる脅威たるジュリアン侯爵について、仲間たちに情報を共有した。
「ジュリアン様は、確か、二十歳か二十一歳くらいだったはず。陽光を弾くような金髪を優雅に揺らし、宝石のような青い瞳で、実に流暢に甘い言葉を紡ぐ方でした。その立ち居振る舞いは、洗練されすぎて、どこか本心が読めません……」
「そいつは食えねえ野郎の典型ですな」とレオが言えば、コンラートは黙って眉間の皺を深くする。
私は、前回の戦訓を徹底的に分析し、新版・防衛マニュアルを策定した。役割分担は、アンナが「会話妨害」、レオが「外部陽動」、コンラートが「無言の圧力」、そして追い詰められた際の私の最終防衛ラインは「マダム・キュピドン談義」。完璧な布陣であった。
***
やがて、二重の脅威が、ついに屋敷に到着した。応接室には、前回以上の緊張感が漂う。
伯母様が、案の定「ジュリアン様ほど、あなたに相応しいお相手はいないのですよ」と、一方的に縁談話を進めようとした、その時。作戦は開始された。
アンナが「まあ、新しいお茶菓子が焼き上がりましたので」と絶妙なタイミングで会話を遮り、レオが庭で「珍しい冬咲きの薔薇が! これは大発見だ!」と大声で叫んで注意を逸らし、コンラートが私の後ろで石像のように佇み、無言の圧力をかける。防衛戦は、序盤、完璧に進んでいるように見えた。
しかし、である。予測不能な変数は、常に戦場を支配するのだ。
ジュリアン様は、伯母様のお節介を、どこか楽しむように受け流している。そして、伯母様がアンナの淹れたお茶に気を取られた一瞬の隙に、私の側へ身を寄せ、こう囁いた。
「セレスティナ嬢。驚かせてしまったようだね。申し訳ない。伯母上の熱意に、少々お付き合いしているだけだよ。本当の目的は、君にもう一度、会いたかった。ただ、それだけだ」
彼の瞳は、舞踏会の時と同じように、人懐っこいが、その奥底の真意は全く読めない、美しい輝きをたたえていた。
え……? なんですって……?
私の脳内は、新たな情報のインプットに処理が追いつかず、大混乱に陥った。完璧なはずのマニュアルは、この予測不能な変数に対応できず、思考は完全にフリーズしてしまったのである。
***
結局、その日は、ジュリアン様自身がうまく立ち回り、縁談話が決定的な段階に進むことはなく、嵐は過ぎ去っていった。
しかし、私の心は、全く晴れなかった。
ジュリアン侯爵という人物が、敵なのか、味方なのか、あるいは全く別の何か(例えば、ただの面白いもの好き)なのか、全く分からなくなったからだ。私は、人を「敵」か「味方」か、あるいは「分析対象」としてしか見ていなかった、自分の視野の狭さに、初めて気づかされた。
世界には、マダム・キュピドンの物語のように、単純なヒーローも、分かりやすいライバルもいないのかもしれない。マニュアルでは到底分類できない、複雑で、曖昧で、そして、だからこそ面白い人間関係が存在するのだ。
私の新作において、単純な三角関係の物語は、より複雑な様相を呈し始めることになった。ライバルだと思っていた人物が、時にヒロインを助け、その真意が見えないことで、物語に新たなサスペンスと深みが生まれる。
「初雪がもたらしたのは、招かれざる再訪者と、新たなる防衛マニュアルの策定という、実に厄介な騒動であった。しかし、そのマニュアルが全く役に立たぬほど、現実は複雑で、人の心は不可解であった」
私は、窓の外で再び静かに降り始めた雪を眺めていた。
「ジュリアン侯爵。彼という名の、美しくも厄介な『変数』の登場により、我が退屈な日常という方程式は、もはや解き明かせぬほどの魅力的な謎と化したのである」