第二十三章 庭師の見る夢と、汚れた手の価値に関する考察
夏の終わりを告げる、少しだけ涼やかな風が吹くようになった。私の元には、相も変わらず、ジュリアン侯爵令息からの、洒落た便箋の手紙や、王都の高級店から届けられた珍しい花束が届く日々が続いていた。そのきらびやかな世界に触れるたび、私の心は、少しの戸惑いと、気後れを感じずにはいられなかった。
気分転換に庭を散策していた、ある日の午後。私は、黙々と薔薇の剪定をする庭師レオの姿を目にした。彼の、日に焼け、土に汚れた手。私は、その手と、ジュリアン侯爵の(想像上の)白く優雅な手とを、無意識のうちに比較している自分に気づいた。
世界は、かくも不公平にできている。陽の光を浴びて輝く者と、陽の光を浴びて土にまみれる者。その間には、越えがたい、透明な壁が存在するかのようだ。では、人の価値とは、一体いかなる基準で測られるべきなのか?
私は、身近な存在であるレオの「生き方」や「夢」について、これまで深く考えてこなかったことに、今更ながら気づいたのである。
***
私は、庭の花について尋ねるという、我ながら見え透いた名目でレオに近づき、改めてその姿を観察した。日に焼けた健康的な肌。悪戯っぽく輝く鳶色の瞳。丁寧に切りそろえられた無造作な髪。年齢は、おそらく二十歳を少し過ぎた頃だろうか。貴族とは違う、精悍で、しなやかな身体つきをしている。
やがて休憩時間になったレオが、木陰で腰を下ろし、懐から一冊の古い本を取り出した。それは、聖夜祭で私が贈った、あの革装丁の冒険小説であった。レオは、土に汚れた指で、しかし実に大切そうに、その頁をめくっている。その横顔は、いつものお調子者の庭師ではなく、遥か遠い未知の世界に思いを馳せる「冒険者」の顔をしていた。
私は、吸い寄せられるように、彼に問いかけていた。
「レオ……あなたは、本当はずっと、庭師でいたいわけではないのではありませんか?」
私の唐突な問いに、彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがていつものように、悪戯っぽく笑って言った。
「さあ、どうでしょうねえ」
彼はそう言って、はぐらかす。
「でもまあ、この土くれの中から、綺麗な花を咲かせるのも、ちいさな冒険みたいなもんですけどね」
***
レオが仕事に戻った後も、私は一人、庭に残っていた。
彼が手入れした花壇に目をやる。そこには、色とりどりの花が、大地にしっかりと根を張り、力強く咲き誇っている。その美しさは、レオの「汚れた手」によって、日々、生み出されているものだ。
私は、ジュリアン侯爵が贈ってくる、豪華な切り花の花束と、レオが庭に咲かせている、根を張った花とを心の中で比較した。贈られた花は、その瞬間は華やかだが、やがては枯れていく。しかし、庭に咲く花は、季節が巡ればまた咲き、生命を繋いでいく。
その時、私は悟ったのだ。
レオの「汚れた手」は、ただ汚れているのではない。それは、何かを「生み出し」「育む」ための、尊い手なのだ。人の価値は、その身分や、手の白さ、服装の華やかさで決まるのではない。その手が、何を生み出し、何を成すのか、その「行為」にこそ、本当の価値があるのだ。
そこへ、コンラートが私の様子を見に来てくれた。私は、彼の、節くれだった手を見つめて言った。
「コンラートの手も、剣の鍛錬で、いつも硬くなっていますわね」
彼は、少し不思議そうな顔をしたが、やがて、朴訥に答えた。
「ええ。ですが、この手で、お嬢様をお守りできるのなら、本望です」
レオの「育む手」と、コンラートの「守る手」。私は、自分のすぐ側にある、二つの尊い「手」の価値を、改めて噛み締めていた。
***
屋敷に戻った私は、自らの手を見た。
それは、ペンを握るための、インクで汚れることのある手だ。貴族令嬢としては、決して褒められたものではないのかもしれない。
しかし、私は、決意を新たにした。私のこの「手」が成すべきことは、物語を「生み出し」「育む」ことなのだ、と。レオやコンラートのように、自分の持ち場で、自分の手で、価値あるものを生み出していくのだ。
マダム・キュピドンの新作。ヒロインは、華やかな貴族のヒーローだけでなく、身分は低くとも、自らの手で何かを成し遂げようとする、誠実な職人の青年にも、人としての深い敬意と魅力を感じるようになる。物語の世界に、身分を超えた人間賛歌のテーマが、そっと加えられた。
「ジュリアン侯爵の白い手は、きっと、美しい詩でも紡ぐのだろう。しかし、レオの土に汚れた手は、この庭に生命を咲かせ、コンラートの硬い手は、私の平穏を守ってくれる。そして、私のこの手は、物語を紡ぐ」
手の価値は、その白さにあらず。その手が、何を成すかにこそある。
「なんと、明快で、力強い真実であろうか」