第二十二章 恋愛小説家のための、尾行および潜入調査の実践
担当編集者からの「三角関係を描け」という、無慈悲にして的確な要求に応えるべく、私は日夜、筆を走らせていた。しかし、ある一点において、私のペンは、あたかも干上がった川の如く、ぴたりと動きを止めてしまったのである。
それは、「恋人たちの密会」の場面であった。わたくしの描く密会は、どうにも詩的で、甘美すぎる。もっと、こう、読者の心をざわつかせるような背徳感や、いつ誰に見つかるやもしれぬという、心臓を鷲掴みにするようなスリルといったものが、決定的に欠けているのだ。
およそ小説家とは、安楽椅子に座したまま、世界の森羅万象を知ったかぶる、傲慢な生き物である。しかし、真のリアリティとは、現場の埃っぽい空気の中にしか存在しないのではないか? ならば、行くしかない。恋人たちが密やかに会合するという、その現場へと!
「アンナ! わたくしは、フィールドワークに出ます! これも、全てはよき物語のため。作家としての、純粋な探求心からですわ!」
私は『恋愛作法大全』に、新たに「潜入調査編」のページを書き加えながら、高らかにそう宣言したのであった。
***
私の無謀にして、倫理的に極めてグレーな計画の実行には、協力者が不可欠であった。
作戦参謀兼、変装担当には、庶民の事情に詳しいレオを任命した。「レオ、あなたのその、いかなる場所にも溶け込める、カメレオンの如き処世術を、わたくしの研究のために貸しなさい!」
彼は「面白そうじゃないスか!」と、実に軽薄に、しかし心強く協力を快諾してくれた。
そして、護衛役には、当然ながら、騎士コンラートが任命された。
「お嬢様、そのような行為は、騎士道にもとります……!」
彼は、実に渋い顔でそう諫めたが、私の「では、わたくし一人で行ってまいります。もしわたくしの身に何かあったら、あなたの責任ですわよ?」という一言の前に、不承不承ながらも頷くしかなかったのである。
アンナは、最初こそ大反対していたものの、私の探求心を止められないと悟ると、深いため息と共に、後方支援に回ってくれた。
レオの指示のもと、我々は変装を施した。
私は、いつもの優雅なドレスではなく、庶民の娘が着る、素朴で動きやすいワンピース姿に。亜麻色の髪も三つ編みにして、古い頭巾で隠した。鏡に映る、いつもと全く違う自分の姿に、私の胸は、冒険小説の主人公にでもなったかのように、少しだけ高鳴っていた。
しかし、最大の難関はコンラートであった。鍛え上げられた屈強な体に、庶民の服は全く似合わない。シャツはパツパツで、ズボンは丈が短い。どう繕っても「屈強な用心棒」以外の何者にも見えず、潜入には全くもって不向きであった。
「旦那、もうちょい肩の力抜いてくださいよ」
レオの言葉に、コンラートは、ますます表情を硬くするばかりであった。
***
我々、奇妙な三人組は、城下の公園に潜んでいた。レオが目星をつけていた、パン屋の娘と仕立て屋の弟子という、実に微笑ましいカップルをターゲットに、尾行を開始するためである。
やがて現れた二人の後を、我々は、物陰から物陰へと移動しながら、慎重に追った。
私はメモ帳を片手に、二人の会話や仕草を必死に記録する。
「ふむ、男性は、会話中に女性の髪に触れることで、親密さをアピールする、と……」「なんと! 噴水の影に隠れて、口づけを……! なんという大胆さ!」
私の目は、研究者としての輝きに満ちていた。
しかし、潜入調査とは、かくもハプニングに満ちたものなのか。
まず、あまりに目立つコンラートが、隠れようとして、手入れの行き届いた花壇を派手に踏み荒らし、カップルに怪訝な顔をされた。
次に、カップルが市場で買い食いを始めたリンゴ飴に、私も夢中になり、ターゲットを見失いそうになった。「こ、これも重要なフィールドワークですわ!」と、私は必死に言い訳をした。
そして、最大の危機が訪れた。
尾行に熱中するあまり、人混みの中で、私が柄の悪い男たちに絡まれてしまったのだ。「お嬢ちゃん、一人かい? 俺たちとお茶でもどうだい?」
私が恐怖に固まっていると、すかさずコンラートが、私の前に立ちはだかった。彼は何も言わない。ただ、その鋭い眼光だけで、男たちを射抜いた。男たちは、蛇に睨まれた蛙のように固まった後、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。変装していても、彼の騎士としての本質は、何一つ変わらないことを、私は再認識したのだった。
***
ほうほうの体で屋敷に帰り着いた我々は、皆、泥と汗にまみれていた。潜入調査によって得られた学術的成果は、残念ながら、皆無に等しかった。
私は、ソファに突っ伏しながら、今日の出来事を反芻していた。恋人たちの「リアル」は、私が想像していたような、常に詩的で甘いものではなかった。それは、もっとぎこちなく、もっと生活感に溢れ、そして、予測不能なハプニングに満ちていた。
そして、何よりも、安全な場所から他人を観察することの倫理的な問題と、いざという時に自分を守ってくれる仲間がいることの、絶対的なありがたさを痛感した。
「わたくしは、ただ、安全な場所から、他人の人生を覗き見していただけでしたわ……」
私は、少しだけ、反省した。
マダム・キュピドンの新作。恋人たちの密会のシーンは、完璧でロマンチックなだけではない。会話が噛み合わなかったり、予期せぬ邪魔が入ったり、それでも互いを想う気持ちで乗り越えていく、という、リアルでコミカルな描写が加えられた。
「潜入調査によって得られた学術的成果は、皆無に等しかった。しかし、私は知ったのだ。物語のリアリティとは、完璧なプロットの中にあるのではなく、予測不能なハプニングと、その中で光る人の本質の中にこそ宿るのだ、と」
私は、泥だらけになった自分の服と、なぜか誇らしげなコンラートの顔を交互に見ながら、くすりと笑った。
「どうやら、我が次なる研究対象は、この頼もしき仲間たちの、更なる観察にあるらしい」