第二十章 担当編集者はかく語りき、あるいは三角関係の定石
王宮の舞踏会が過ぎ、季節は本格的な夏を迎えていた。我が領地の庭は、生命力に満ち溢れた緑で輝き、私の研究活動もまた、かつてないほどの活況を呈していたのである。
研究対象は、もちろん、騎士コンラート。そして、比較対象は、舞踏会以来、頻繁に手紙や花を寄越してくるようになった、ジュリアン侯爵令息である。
私は、封印を解いた『恋愛作法大全』の「嫉妬感情編」に、日々新たなデータを書き加えていた。
『ジュリアン様より薔薇の花束届く。コンラート、眉間の皺、通常時比3ミリ深化。嫉妬レベル2と認定』
『ジュリアン様からの手紙を、わざとらしく音読。コンラート、剣の素振りの音が、通常時比1.5倍の威力を記録。嫉妬レベル3に上昇』
この貴重な生データを元に、マダム・キュピドンの新作で、ヒロインを巡るヒーローとライバルの火花散る「三角関係プロット」を、私は意気揚々と書き進めていたのだ。
そんな折、担当編集者から、分厚い手紙が届いた。
担当編集者。それは、作家という名の孤独な航海士に、時に追い風を、時に嵐をもたらす、気まぐれな天候のごとき存在である。その手紙は、我が順風満帆な創作の海に、果たして何をもたらすのであろうか。
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手紙を読み進める私の表情は、当初、得意満面であった。
手紙には、こうあった。『読者アンケートの結果、皆様は今、よりドラマチックで、障害の多い恋を求めております。そこで先生、次回作は、ぜひとも「三角関係」をテーマにお願いしたいのです!』
「なんと! わたくしの先見の明は、恋愛小説市場の需要すら予見していたというのか!」
私は、自らの才能に打ち震えた。
しかし、その喜びは、手紙の続きを読んだ瞬間に、脆くも崩れ去ることになる。
『つきましては、三角関係をより魅力的にするための「定石」をまとめましたので、ご参考に。①ヒーローは少し強引で、ヒロインを翻弄するタイプが良い。②ライバルは優しく献身的だが、どこか影があり、自己犠牲的。③ヒロインは二人の間で激しく揺れ動くべき……』
極めて具体的で、そして、陳腐とも言える「売れ筋の型」の羅列。私の心は、急速に冷え込んでいった。自分の興味から自由に描いていたはずの三角関係が、急に色褪せた「お仕事」になってしまったのだ。
しかも、編集者の言う「定石」と、私が観察している現実は、全く食い違っていた。
「コンラートは強引ではないし、ジュリアン様は影があるというより、ただただ眩しい……。この現実を、どうやって定石に当てはめれば良いのですか!」
私は、頭を抱えて呻いた。
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悩み抜いた末、私は応接室にアンナとレオを招集し、「あくまで、小説のプロットの話ですのよ!」と、三回ほど念を押した上で、相談を持ち掛けた。
「強引で、少し危険な香りのする殿方と、どこまでも優しく献身的な殿方。一体、どちらが物語のヒーローとして魅力的かしら?」
「そりゃあ」と、レオが腕を組む。
「女をグイグイ引っ張ってくれる男の方が格好いい時もあるでしょうけど、結局、いざって時に優しいのが一番じゃないスか? ま、両方持ってりゃ最強ですけどね」
実に、現実的な意見であった。
次に、アンナが静かに口を開いた。
「お嬢様。物語の登場人物は、定石通りだからといって魅力的とは限りませんわ。その人らしさ、と言いますか……矛盾しているところや、不器用なところにこそ、人は心惹かれるものではございませんか?」
アンナの言葉に、私はハッとした。そして、コンラートのことを思う。
彼は強引ではない。しかし、私が困っている時には、いつも黙って側にいてくれる。彼は献身的というより、ただ、騎士として誠実なだけだ。不器用で、朴訥で、けれど、その行動には絶対的な信頼がおける。それは、どの定石にも当てはまらない、彼だけの、唯一無二の魅力なのだ。
***
私は、自室の机に向かった。そして、編集者の言う「定石」を、綺麗さっぱり忘れることにした。
「読者の需要も、編集者の定石も結構。ですが、マダム・キュピドンが描くべきは、紋切り型の物語ではない。わたくしが、この目で見て、この心で感じた、生身の人間の物語ですわ!」
私は、担当編集者に、丁寧だが、きっぱりとした返事を書いた。
『ご提案、感謝いたします。ですが、わたくしには、わたくしだけの三角関係の描き方がございます』
そして、新作の執筆を再開する。
強引ではないが、誰よりも誠実なヒーロー(コンラートがモデル)。
優しく見えるが、その本心は容易には読めないライバル(ジュリアンがモデル)。
そして、二人の間で、単純な恋心だけでなく、人としての信頼や尊敬といった、複雑な感情に揺れ動くヒロイン。
それは、どの定石にも当てはまらない、私だけのオリジナルな物語だった。
「担当編集者はかく語りき。『三角関係には定石がある』と。しかし、私は知っている。現実という名の、最も不可解で面白い物語には、定石など一つもないということを」
私は、窓の外で黙々と剣の稽古をするコンラートの姿を眺めながら、満足げに微笑んだ。
「我がペンは、その混沌の海にこそ、漕ぎ出すべきなのである」