第二章 書簡術概論 ~インクの香りから封蝋の色まで~
第一章にて、我が小説の主人公たちは、なんとも締まらないながらも、ともかく歴史的なる邂逅を果たした。その原稿を前に、私はしばし満悦の吐息を漏らしていたのである。不格好な衝突、散らばった恋愛小説、赤面する騎士。おお、なんと生々しく、なんと人間的な出会いであろうか。これぞまさしく、マダム・キュピドンの新境地と言っても過言ではあるまい。
だが、である。私の満足感は、あたかも夏の日の積乱雲の如く、たちまちにしてその形を失った。出会った二人が、次に何をすべきか。その一点において、我が筆は再び、堅く口を閉ざしてしまったのである。沈黙は金、などとどの賢人が言ったのかは知らぬが、小説における沈黙は死に等しい。
「ああ、言葉が、言葉が足りませんわ!」
私が長椅子の上で身悶えていると、背後から静かな声がした。
「お嬢様。そろそろお夜食にしませんと、空腹で思考力も低下いたしますよ」
いつの間にやら現れたアンナが、焼きたてのスコーンとミルクティーの載った盆を手に、小首をかしげている。彼女の指摘は、私の芸術的苦悩を、単なる低血糖の症状へと貶める、実に無粋なものであった。
「アンナ、あなたはわかっていない! 手紙ですわ、手紙! 出会いがビッグバンであるならば、その後に交わされるべき手紙とは、生まれたばかりの惑星間に引力を生じさせ、公転軌道を定めるための、極めて繊細にして重要な天体物理学なのです! これを疎かにして、どうして男女の魂が結びつくというのですか!」
「はあ、天体物理学でございますか」
「左様! しかるに、今のわたくしには、その軌道計算ができない! このままでは、我が主人公たちは、永遠に互いの周りをさまよう、哀れな小惑星と化してしまいますわ!」
私は憤然と立ち上がった。そうだ、第一章の時と同じである。現実が小説に追いつかぬのならば、現実を小説に近づければよいのだ。
「見ていなさい、アンナ! わたくしは、古今東西の恋文を分析し、完璧なる『恋愛書簡術』を体系化してみせますわ!」
「かしこまりました。それでは、研究のお供に、こちらのスコーンをどうぞ」
アンナはこともなげに言うと、テーブルに夜食を並べ始めた。私の壮大なる決意は、どうやら温かいスコーンの湯気と共に、ふわりと受け止められたようである。
***
かくして私は、再び聖域たる書庫『叡智の迷宮』に籠城した。今度の研究対象は「手紙」である。歴史上の英雄王が、隣国の王女に送ったという情熱的な恋文。騎士道物語に描かれる、戦場の主君への忠誠を誓う書状。そして、私が特に注目したのは、王都の三文ゴシップ紙の片隅に追いやられた「マダム・ロザリーの恋のお悩み相談室」なるコラムであった。
『好きな人に手紙を書きたいけど、何を書けばいいかわかりません』という、なんとも純朴な悩みに対し、マダム・ロザリーはこう答える。『難しく考えなさんな。まずは、相手の素敵なところを一つ、正直に褒めてごらん』。
なんと。なんと的確にして、実践的な助言であろうか。庶民の知恵、侮りがたし。私は畏敬の念とともに、その助言を羊皮紙に書き留めた。
数日にわたる研究の結果、私は「完璧な恋文」を構成する必要不可欠な要素を、以下のように定義するに至った。
一、媒体の選定。便箋の紙質と色は、書き手の第一印象を決定づける。
二、香りの戦略。インクに含ませる香りは、言葉以上に雄弁に感情を物語る。
三、修辞法。序文から結びまで、計算され尽くした言葉の配置。
四、封蝋の色彩心理学。色こそが、その手紙の最終的な意味合いを決定づけるのだ。
私はこの理論を検証すべく、二通の実験用恋文を執筆した。今回の実験台、すなわち恋文の栄えある受取人として、性格の対照的なる騎士コンラートと庭師レオが選ばれたのは、言うまでもない。
***
実験は、翌日の昼下がり、アンナを密使として決行された。
まずは、実験対象1:騎士コンラートである。
彼への恋文は、誠実さの象徴たる青いインクを使い、上質な羊皮紙にしたためた。純潔を示す百合の香りをほんのりとまとわせ、封蝋は高潔なる白。内容は、彼の剣技と忠誠心を讃えつつ、「あなたの実直な瞳に見守られていると、わたくしの心は、春の陽だまりのように穏やかになります」と、奥ゆかしく結んだ。
アンナからの報告によれば、騎士詰所で手紙を受け取ったコンラートは、まず差出人の名を見て恐縮し、内容を読んで顔を茹でダコの如く真っ赤にし、最後には天を仰いでこう叫んだという。
「お、お嬢様は、この俺のような者にまで、このようなお気遣いを…! このコンラート、生涯を賭してお仕えいたします!」
「……だ、そうです」
「ふむ。彼の忠誠心を補強する効果は絶大。しかし、恋愛ベクトルへの変換率、ゼロ。これはこれで、興味深いデータですわね」
私の分析に、アンナは「当然の結果かと」と小さな声で付け加えた。
次に、実験対象2:庭師レオである。
彼への恋文は、がらりと趣向を変えた。洒落た葦ペンで、挑発的な黒のインク。香りも、甘さではなくスパイシーな香木を選んだ。そして封蝋は、燃えるような情熱の赤。内容は、古代詩の一節を引用しつつ、こう締めくくった。
「あなたの言葉は蝶のように軽やかで、わたくしの心には留まらない。本気でこの心を射止めたくば、言葉だけでなく、あなたの魂を見せてみなさい」
アンナが薔薇のアーチを手入れしているレオにそれを手渡すと、彼はニヤリと笑い、一読するなり、腰に下げた剪定鋏で深紅の薔薇を一輪、鮮やかに切り取ったという。そして、アンナにそれを手渡し、こう言ったそうだ。
「お嬢様に伝えてくれ。『蝶も、本当に美しい花の蜜を吸うためなら、喜んでその羽を休めるのさ』ってね」
その報告を受けた瞬間、私の顔にカッと熱が集まった。
「な、生意気な……! なんて軽薄で、自信過剰な男でしょう!」
そう口では言いながら、私の胸は、まるで祝祭の太鼓のように高鳴っていた。打ち返された。見事に。これぞ言葉の応酬、これぞ恋の駆け引き! 我が挑戦状は、完璧なる形で受理されたのである!
***
自室に戻った私は、興奮冷めやらぬまま、今日の実験結果を『恋愛作法大全』の第二章に書き記した。
『結論。恋文とは、一方的な想いの投擲にあらず。相手との間に言葉の橋を架ける、極めて高度にして双方向的な共同作業なのである。すなわち、それはキャッチボールなのだ』
私は満足してペンを置くと、再び小説の原稿に向かった。もう、迷いはなかった。
公爵令嬢イザベラは、騎士団長アレクシスに、彼の不器用な優しさを讃える、誠実な手紙を送る。数日後、返ってきた手紙には、気の利いた言葉はなかった。ただ、一輪の素朴な野の花が、そっと挟まれているだけだった――。
コンラートの誠実さと、レオの粋なアクション。その二つを融合させた、完璧なるシーンが、こうして生み出されたのである。
私が満足のため息をついていると、アンナがお茶を運んできた。
「お嬢様、お疲れのようですから、甘いものでもいかがですか? 王都で流行りの『恋人たちのタルト』というお菓子が手に入りましたの。なんでも、恋人同士で食べると愛が深まるとか。……いかがなさいますか?」
恋人たちの、タルト。
その甘美な響きに、私の脳裏で、新たなる研究テーマが閃光のように煌めいた。
「贈り物」「デート」「甘いお菓子」。おお、なんと胸躍る探求分野であろうか。
私の目は、再び、知的な探求心の輝きを取り戻していた。我が恋路は五里霧中なれど、研究の道は、果てしなく拓けているのである。