第十八章 王宮舞踏会と、予測不能なる変数の出現
その日、クラインフェルト伯爵邸は、夜明け前から静かな熱気に包まれていた。春の王宮舞踏会。それは、二年にわたる私の冬眠生活に、強制的な春の訪れを告げる、運命の日であった。
アンナの手によって、私は一体の人形のように着飾られていく。滑らかな絹のドレスが肌を滑り、冷たい輝きを放つ宝石が首元を飾る。鏡に映るのは、雪のように白い肌に、緊張で微かに薔薇色を帯びた頬を持つ、知らない令嬢の姿。これが、私だというのか。私は、自分の身体でありながら、その中身が空っぽであるかのような、奇妙な感覚に襲われていた。
「アンナ……わたくし、やはり……お腹が、その、大変なことになってまいりました」
「大丈夫でございます、お嬢様。深呼吸を。今日のために、皆様と練習を重ねてきたではございませんか」
アンナの声は、いつも通り落ち着いていたが、その指先は、私の髪を整えるふりをしながら、微かに震えているように見えた。
王宮へと向かう馬車の中、私の心臓は、開戦を告げる太鼓のように、けたたましく鳴り響いていた。
およそ王宮舞踏会とは、シャンデリアの光が星屑の如く降り注ぎ、美酒と虚飾が川のように流れる、絢爛豪華なる社交の戦場である。私のような、ろくに訓練も積んでいない脆弱なる兵士が、果たしてこの戦場を生き延びることができるのであろうか。隣に座るコンラートの、石像のような横顔だけが、この揺れる世界で唯一、確かなもののように思えた。
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王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間、私は情報の洪水に飲み込まれた。幾百もの蝋燭が放つ圧倒的な光、弦楽器の甘い調べと人々の喧騒が織りなす音の奔流、様々な香水と熱気が混じり合ったむせ返るような匂い。全てが、私の脆弱な五感を容赦なく打ちのめす。
私は、あっという間に「場の空気」という名の怪物に飲み込まれ、壁際の隅に張り付いた。護衛として控えるコンラートの背中を、まるで最後の砦であるかのように盾にして、ひたすら気配を消すことに全神経を集中させる。何人かの貴族子息が、私に声をかけようと近づいてきたが、私が怯えた小動物のような視線を向けると、皆、怪訝な顔をして去っていった。
ああ、やはり無理なのだ。私がこの場所にいること自体が、壮大なる間違いなのだ。
自己嫌悪の泥濘に沈みかけた、その時だった。
「お嬢様」
コンラートが、静かな声で言った。
「よろしければ、一曲、俺と踊っていただけませんか」
練習相手としてではない。ただ、この場で孤立する私を、救い出すための一人の男性としての誘い。私は、その無骨な手に導かれるまま、恐る恐る広間の中央へと進み出た。
ワルツの調べが始まる。人の海の中で、私はコンラートという名の、ただ一つの浮き輪にしがみついた。すると、不思議なことに、あれほど恐ろしかった周囲の喧騒が、すうっと遠のいていく。聞こえるのは音楽と、彼の確かなステップを踏む音だけ。私は、彼を信じて体を預けた。彼もまた、私を信じて、力強く、しかし優しくリードしてくれる。私たちは、決して優雅ではなかったかもしれないが、確かに、二人だけの円舞曲を踊りきったのだ。
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ささやかな成功体験に、私の心は少しだけ軽くなっていた。これなら、あるいは、もう少しだけ、この戦場に留まることができるかもしれない。
そう思った矢先であった。その男は、あたかも物語の法則性を無視する闖入者のように、我々の前に現れた。
「これはこれは、闇夜を照らす月よりもなお美しい、麗しの君。もしや、あなたが、かのマダム・キュピドンの描く、理想のヒロインではございませんか?」
芝居がかった仕草で私の前に跪いたのは、見目麗しい青年貴族であった。蜂蜜色の髪は光を弾き、その瞳は、楽しげな光に満ちている。若き侯爵令息、ジュリアン。彼の名は、私も噂で聞いたことがあった。
私は、彼の口から「マダム・キュピドン」の名前が出たことに、心臓が喉から飛び出るほど驚愕した。
「なぜ、その名を……」
「おや、ご存知ない? 今、社交界の淑女たちは、皆、マダム・キュピドンの新作の話題で持ちきりですよ。かく言う私も、先生の熱烈なファンの一人でしてね。あなたのその、どこか憂いを帯びた雰囲気が、最新作のヒロイン、イザベラ嬢にそっくりだと、ついお声がけしてしまった次第」
彼は、私が作者本人だとは夢にも思わず、ただ「マダム・キュピドンの作品を愛する、趣味の合う令嬢」として、私に興味を持ったらしい。
正体がバレる恐怖。自分の作品がこれほど熱く語られることへの、抗いがたい高揚感。そして、目の前の馴れ馴れしい男性への対処法がわからない、純然たる混乱。三つの感情が、私の頭の中で渦を巻き、私は完全に思考停止に陥っていた。
私の背後で、コンラートが息をのむ気配がした。彼の、ジュリアン侯爵令息に向けられる視線は、もはや護衛のそれではない。それは、自らの宝物を脅かす者に向ける、剥き出しの敵意と、身分という見えざる壁の前での、焦燥に満ちた無力感であった。
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しかし、ジュリアン侯爵令息は、私の動揺を「奥ゆかしい恥じらい」と、コンラートの敵意を「無骨な護衛騎士の忠誠心」と、ことごとく都合よく解釈したらしい。
彼は、悪びれもせずに立ち上がると、優雅に私へ手を差し出した。
「さあ、美しきイザベラ嬢。この良き出会いを祝して、ぜひ一曲、私と踊っていただけませんか?」
断る隙も与えぬ、強引な誘い。私は、助けを求めるようにコンラートを見た。しかし、彼は、ただ唇を固く噛み締め、握りしめた拳を震わせるばかりで、侯爵令息の誘いを遮ることはできない。
私は、その差し出された手を取るしかなかった。
コンラートではない、全く知らない男の手に引かれ、再び、人の渦の中へと引き戻される。そのぎこちないステップを踏みながら、私は、背後から突き刺さる、コンラートの、これまで感じたことのないほどに険しく、そして痛切な視線を感じていた。
私のささやかな日常という名の方程式に、突如として放り込まれた、予測不能なる変数『ジュリアン』。
彼の出現によって、この方程式が、いかなる解を導き出すのか。
それは、当代随一の恋愛小説家、マダム・キュピドンである私にも、全く、全く予想がつかなかったのである。