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第十六章 模擬会話における相槌の最適化と、笑顔の僵直について

 春の朝の散歩を日課とし、コンラートとの不器用なワルツの練習を重ねた結果、我が軟弱なるナメクジの如き肉体にも、ようやく人並みの体力が備わりつつあった。しかし、舞踏会の日が刻一刻と近づくにつれ、私の心には、筋肉痛とは比較にならぬ、より深刻な恐怖が暗い影を落としていたのである。


「体力がついても、ダンスが踊れても、殿方と何を話せばよいのですか!?」


 私の脳裏には、来るべき舞踏会の会場の隅で、誰とも話せず、ただひたすらカナッペを頬張り続ける、己の哀れな姿が繰り返し映し出されていた。それは、もはや社交ではなく、ただの公開餌付けではないか!


 会話。それは、言葉という名のボールを、絶妙な間合いと速度で投げ合う、高度な遊戯である。しかし、私のような初心者がそのコートに立てば、飛んでくるボールにただ顔面を強打され、無様に退場する未来しか見えない。ああ、沈黙は金というが、社交界において沈黙は死なのである!


 恐怖のあまり、私は、かつて自ら封印したはずの『恋愛作法大全』を、机の引き出しの奥から、そっと引っ張り出した。

「そうですわ! 感情で会話をしようとするから失敗するのです。会話もまた、分析と実践によって習得可能な技術のはず。大全に『社交会話編』を書き加え、完璧なマニュアルを構築します!」


 ***


 私の書斎は、再び、怪しげな研究の熱気に包まれた。礼儀作法や話術に関する本を参考に、『恋愛作法大全・社交会話編』の執筆に没頭する。その草稿には、「相槌の五段活用 (さしすせそ)」「相手の話を7割聞く傾聴の法則」「当たり障りのない三大テーマ(天気・趣味・ペット)」などが、極めて学術的な注釈と共に書き込まれていった。


 しかし、完璧なマニュアルを実践するためには、模擬戦が不可欠である。今回の相手役として、口が達者で、ある程度女性の扱いに慣れているレオに白羽の矢が立った。

「レオ、あなたのその軽薄さ……いえ、その卓越した話術を、わたくしの研究のために提供しなさい!」


 かくして、応接室にて、レオを「初対面の若き伯爵令息」と仮定した、会話シミュレーションが開始された。ちなみに、コンラートは「万が一、相手が不躾な発言をした際の、威圧による黙らせ方」の教官として、部屋の隅で腕を組み、我々を見守っている。


 ***


「はじめまして、セレスティナ嬢。今宵の月は、あなたの瞳のように美しいですな」

 レオ(令息役)が、実にそれらしい、キザな台詞で口火を切った。

 私は、脳内のマニュアルを高速で検索する。(よし、まずは相槌!)

「さ、さすがですわ!」


「お嬢様のご趣味は、読書だと伺いました。どのような本を?」

「(し、知りませんでしたわ!)」


「近頃は、春の陽気が心地よいですな」

「(す、素敵ですわね!)」


「俺、まだ天気の話しかしてませんぜ、お嬢様?」

 レオのツッコミに、私の思考回路はショート寸前であった。パニックに陥った私は、マニュアルの序列を無視し、習得した相槌を、ただひたすら機関銃のように連射し始めた。

「せ、センスがよろしいのですね!」「そ、そうなんですのね!」「さ、さすがですわ!」「す、素敵です!」


 さらに、マニュアルの次なる項目、「常に微笑みを絶やさぬこと」を思い出した私は、必死に口角を引き上げた。しかし、極度の緊張のあまり、その笑顔は完璧に引きつり、あたかも石膏像のようになっている。

「わ、わたくしは、いつだって、会話を、心から、楽しんでいますわよ? おーほほほほ……」


 私の乾いた笑い声が、応接室に虚しく響く。その異様な光景に、レオはついに肩を震わせて笑いをこらえきれなくなり、隅で見守っていたコンラートは、私が何かの発作を起こしたのではないかと、本気で心配して腰の剣に手をかけそうになっている。

 その時であった。

「お嬢様、少しお休みになられては? お顔の筋肉が、悲鳴をあげておりますわ」

 救いの女神、アンナが、お茶を運んできて、私の惨めな一人芝居は、強制的に幕を下ろされたのである。


 ***


 シミュレーションは、大失敗に終わった。私は、「マニュアルは完璧なはずなのに、なぜですの……」と、ソファに突っ伏して落ち込んだ。

 そんな私の前に、レオがしゃがみ込み、いつもの軽口を封印して、真面目な顔で言った。

「お嬢様。会話ってのは、うまくやろうとすることじゃないんですよ。相手に興味を持つこと、じゃないんですかね」

「興味……?」

「そう。お嬢様が本当に好きな、本の話をしてる時の方が、ずっとキラキラしてて、魅力的ですよ。俺は、そっちの話の方が聞きたいな」


 レオの言葉に、私はハッとした。

 そうだ。私は、会話を「乗り切るべき試練」としか考えていなかった。相手を「知ろう」という、最も大切な視点が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。マニュアルは、私の心に蓋をするための、ただの分厚い武装でしかなかった。


 私は、マダム・キュピドンの新作に、新たなヒロイン像を描き出した。

 完璧な会話術を持つ令嬢ではない。口下手で、すぐに言葉に詰まってしまうヒロインだ。しかし、彼女は一生懸命に、自分の言葉で想いを伝えようとする。その不器用な姿こそが、ヒーローの心を強く惹きつけるのだ。


「『さしすせそ』の魔術も、完璧な微笑みも、何の役にも立たなかった。どうやら、人の心を開く鍵は、流暢な言葉ではなく、ただ一つ、不器用で、誠実な『知りたい』という気持ちらしい」


 私は、書き加えられたばかりの『恋愛作法大全・社交会話編』のページを、今度こそ、迷いなく破り捨てた。


「なんとまあ、非効率で、厄介で、そして、希望に満ちた真実であろうか」


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