第十五章 春の訪れと、体力増強計画の立案と挫折
長く厳しい冬が終わり、屋敷の庭の雪もようやくその姿を消した。雪解け水がきらきらと輝き、固かった土からは、気の早い草花が健気にも顔を覗かせている。季節は、まごうことなき春であった。
しかし、私の心は春の陽気とは裏腹に、どんよりと曇っていた。来たるべき王宮舞踏会を前に、ダンスの練習を続けてはいるものの、数回ステップを踏んだだけで、私の心臓は抗議の鐘を乱打し、呼吸は荒れ狂う嵐のようになってしまうのだ。
「まあ、お嬢様。少し歩いただけでも息が上がっておりますわ。これでは、一曲踊りきることもままなりません」
ドレスの仮縫いをしながら、アンナが実に的確な、そして残酷な指摘をする。
私は、精神論や理屈だけでは到底乗り越えられない「体力」という、極めて物理的な壁に直面し、愕然としていた。
春。それは、生命が躍動する、希望の季節。しかし、我が肉体は、二年にわたる冬眠の末、すっかり軟弱なナメクジと化していたのである。このままでは、舞踏会という名の戦場で、私は最初のワルツすら踊りきれずに討ち死にするであろう。これは、由々しき事態だ!
私は、この国家的危機(と私の中では認定された)を打破すべく、科学的根拠に基づいた、完璧なる「体力増強計画」の立案を決意したのであった。
***
私の書斎は、三度、作戦司令室と化した。今度の参考図書は、生理学、解剖学、そして運動力学。「心拍数の最適ゾーン」「超回復の理論」「無酸素運動と有酸素運動の効率的な組み合わせ」。これらの深遠なる知識を吸収し、私は分刻みの完璧なトレーニングメニュー、『最適体力増強プロトコル』を完成させた。
そして、この計画の実行には、専門家の監督が不可欠と判断した私は、騎士として日々鍛錬を積んでいるコンラートに、指導役という名誉ある役職を命じた。
「コンラート! あなたの筋肉に蓄積された経験則を、わたくしの計画のために提供しなさい!」
翌朝、貴族令嬢なりのお洒落な運動着(アンナに無理を言って作らせた)を身にまとった私が、意気揚々と庭に現れると、計画は早速実行に移された。
まず、プロトコルに従い、屋敷の周りを走り始める。しかし、開始三分で脇腹に激痛が走り、五分後には、私は地面に突っ伏して、あたかも陸に打ち上げられた魚のように、はくはくと喘いでいた。「け、計算上は……あと、十五分は……走れる、はずなのに……」
次に、コンラートから軽い木剣を借り、彼の見様見真似で素振りに挑戦。しかし、一振りしただけで腕は生まれたての子鹿のように震え、三振り目には、木剣は私の手からすっぽ抜け、近くの植え込みに無様に突き刺さった。
アンナは、日傘を差して付き添いながら、「お嬢様、何事も、初めから無理は禁物でございます」とハラハラしている。
レオは、庭仕事をしながらその光景を眺め、「お嬢様、運動ってよりは、生まれたての子鹿の舞踊会ですな」と、必死に笑いをこらえていた。
そして、指導役のコンラートは、あまりの体力のなさに、どう指導していいかわからず、「お、お嬢様、まずは、その、散歩から始められては……」と、ひたすら困惑するばかりであった。
***
その日の夜、私の肉体を、未知の激痛が襲った。
「こ、これは……!? 遅発性筋痛、いわゆる筋肉痛! 文献でしか知らなかった、あの伝説の痛みが、今、我が肉体を蹂躙している!」
翌日から三日間、私はロボットのようなぎこちない動きしかできず、ベッドから起き上がるのにも、いちいち悲鳴を上げるという有様であった。計画は、開始初日にして、完璧に頓挫した。
部屋でうんうん唸っている私の元へ、仲間たちが見舞いに来てくれた。
アンナは、筋肉をほぐす効果のあるハーブを入れた、温かいお風呂を用意してくれた。
レオは、「運動の後は、こういうのが効くんですよ」と、蜂蜜入りの甘酸っぱいレモン水を持ってきてくれた。
そして、コンラートは、罪悪感に苛まれているのか、「俺の指導が悪かったせいで……お嬢様に、このような苦痛を……。誠に、申し訳ありません」と、本気で謝罪してくるのであった。
私は、仲間たちの優しさに触れ、自分の計画がいかに無謀で、独りよがりであったかを悟った。
「いいえ、コンラート。悪いのは、自分の体のことを、何もわかっていなかった、わたくしですわ」
私は、素直にそう認めるしかなかった。
***
筋肉痛という名の鉄槌から解放された、数日後の早朝。
私は、自らの意思で、再び庭に出た。しかし、そこにプロトコルも、木剣もない。私はただ、コンラートが言ったように、屋敷の庭をゆっくりと「散歩」し始めた。春の冷たく、しかし新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、足元の土の感触や、芽吹き始めた小さな草花に目を向ける。
壮大な計画や、完璧な理論よりも、地道な「小さな一歩」こそが、自分を変える、確かな力になるのだ。
マダム・キュピドンの新作に、新たな描写が加わった。
これまで完璧超人として描かれがちだったヒーローに、高所恐怖症であったり、苦手な食べ物があったりという、人間的な「弱さ」が描かれるようになった。そして、その弱さを、ヒロインが支え、共に乗り越えていこうとする。
「最適体力増強プロトコルは、開始初日にして、筋肉痛という名の無慈悲な鉄槌の前に砕け散った。しかし、私はその瓦礫の中から、一つの真実を拾い上げた。すなわち、千里の道も一歩から、であると」
私は、隣を静かに歩いてくれるコンラートの存在を心強く感じながら、春の朝の散歩を続けるのだった。
「かくも陳腐な諺が、これほど身に染みたことは、未だかつてなかったのである」