第十一章 厨房における熱量と愛情の相関関係、あるいは初めての菓子作り
収穫祭で、労働の後の食事がもたらす、あの純粋な感動を知って以来、私の胸には、ある一つの思いが芽生えていた。日頃お世話になっている、アンナ、コンラート、レオ。あの三人に、この感謝の気持ちを、どうにかして「形」にして伝えられないものだろうか、と。
言葉を尽くすのは作家として当然の行い。しかし、今の私が求めているのは、もっと直接的で、もっと温かい手段であった。そうだわ! 感謝とは、心の熱量です。その熱量を、物理的な熱量、すなわち美味しいお菓子に変換して贈る。これこそが、最も効率的かつ心温まる感謝の表現方法に違いありません!
およそ菓子作りとは、小麦粉、砂糖、卵といった、ばらばらの存在に、熱量という名の魂を吹き込み、新たなる秩序を創造する、錬金術にも似た神聖な儀式である。ならば、我が感謝の念を錬成し、可食な形で仲間たちに贈ろうではないか!
「アンナ! わたくし、お菓子作りをします!」
私の高らかなる宣言に、アンナは一瞬、屋敷の厨房の未来を案じて、実に遠い目をした。だが、やがて「かしこまりました。誠心誠意、お供させていただきます」と、覚悟を決めた顔で頷いてくれたのである。
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何事も、まずは完璧な理論武装から。それが私の信条であった。私は書庫に籠もり、菓子作りのレシピ本だけでなく、なぜか化学や物理学の専門書まで持ち出して、徹底的に知識を吸収した。「熱伝導率」「メイラード反応」「乳化のメカニズム」。これらの深遠なる理を理解せずして、真の菓子作りなどあり得ないのだ。
「卵を混ぜる最適角度は45度。そして、小麦粉をふるう最適な高さは、万有引力の法則に基づき、30センチが妥当と結論付けられますわ!」
私は、自ら構築した完璧な「菓子作りプロトコル」を胸に、意気揚々と厨房へと乗り込んだ。今回の題材は、収穫祭で手に入ったリンゴを使った、素朴な「アップルタルト」である。
しかし、厨房という名の実験室は、私の理屈通りに動いてはくれなかった。
理論通りに生地をこねれば、ベタベタになって手が抜けなくなり、完璧な角度で卵を割れば、見事に殻が混入し、リンゴの皮を剥こうとすれば、リンゴよりも自分の指の皮を剥きそうになる。
「お嬢様、お菓子作りは、頭ではなく、手で覚えるものでございます」
うっすらと小麦粉を被りながら、アンナが根気強く、そして少し呆れたように言う。理論と実践のあまりの乖離に、私は悪戦苦闘し、神聖なるはずの厨房は、見るも無残な有様と化していった。
***
「お、なんだかいい匂いがしますな」
数々の困難を乗り越え(その実、ほとんどアンナが修正し)、なんとかタルトが焼きあがる頃、ひょっこりと厨房に顔を出したのは、甘い香りに誘われたレオであった。彼の後ろには、なぜかコンラートも、興味深そうに佇んでいる。
「お嬢様、毒見役なら任せてくださいよ」と軽口を叩くレオの横で、コンラートは黙っているが、その瞳は、オーブンの中のタルトに釘付けであった。
そして、ついにタルトは完成した。しかし、焼き上がったそれは、少し焦げていたり、形が歪んでいたりして、お世辞にも完璧とは言えない「不格好なタルト」であった。
「こんなもの……こんなもの、感謝の気持ちを表すどころか、皆様への侮辱ですわ……」
完璧な理論からかけ離れた出来栄えに、私は落ち込んだ。だが、アンナに促され、おずおずと、四人で試食することになった。
「うん!」
最初に声を上げたのはレオだった。
「見た目はともかく、味は素朴でうまいっスね! なんか、ばあちゃんが作ってくれたみてえな、懐かしい味がする」
コンラートは、黙々と、しかし実に幸せそうな顔でタルトを頬張っている。そして、一切れを食べ終えると、ぽつりと一言、こう呟いた。
「……温かい、味がします」
最後に、アンナが優しく微笑んで言った。
「お嬢様が、私達のために一生懸命作ってくださった。そのお気持ちが、何よりの隠し味なのですよ」
***
温かい、味。
その言葉に、私はハッとした。完璧な見た目でも、理論通りの化学反応でもない。ただ「誰かのために」という想いこそが、食べ物を美味しくする最大の要因なのだ。熱量と愛情は、相関するのではなく、愛情こそが、熱量を意味あるものにするのだ。
その夜、私は自室で、一切れの不格好なタルトを改めて味わった。完璧ではない。けれど、確かに温かくて、優しい味がした。
私は、マダム・キュピドンの新作に、新たなシーンを書き加えた。
ヒロインが、ヒーローのために不格好ながらも一生懸命に作った手料理を、ヒーローが「今まで食べたどんなご馳走より美味しい」と言って、幸せそうに食べるシーンだ。それは、豪華な晩餐会よりも、ずっと心温まる愛情表現だった。
「錬金術の儀式は、不格好な結果に終わった。けれど、私の手には、理論では決して作り出せない、温かくて甘い『感謝』の形が確かに残っていた」
私は、満足げに微笑んだ。
「どうやら、愛情という名の隠し味は、どんな完璧なレシピにも勝るらしい」