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第十章 秋の収穫祭と、神への感謝という名の共同幻想について

 読書会という名の静かなる闘争を経て、私は、物語というものが、いかに読み手の心を映し出す鏡であるかを学んだ。私の興味は、いつしか書物のインクの染みから、現実世界で人々が共有する、目には見えぬ物語へと移りつつあった。秋風が、屋敷の窓から黄金色に波打つ麦畑の匂いを運んでくる。私はその光景を眺めながら、思索に耽っていた。


 そんな折、アンナが教えてくれたのである。間もなく、この領地で一番大きな「収穫祭」が開かれるのだ、と。

「夏祭りが『娯楽』の祭典であったならば、収穫祭とは『労働と感謝』の祭典ですわ」

 神への感謝。その言葉に、私の理屈っぽい脳は、即座に反応した。


「それは、個人の内なる信仰心の発露か、はたまた共同体を維持するための集団的な約束事プロトコル、いわば一種の『共同幻想』ではございませんこと?」

 収穫祭。それは、大地の恵みという名の、年に一度のボーナスタイムに浮かれる人々の集い。しかし、その根底に流れる「神への感謝」とは、一体いかなるメカニズムで醸成されるのか。領主の娘として、この共同幻想の構造を解明するのは、責務と言えよう!


 かくして私は、今度は「領主の娘としての公式視察」という、我ながら大層な名目を掲げ、収穫祭の地へと赴くことを決意したのであった。


 ***


 祭りの会場である村の広場は、夏祭りのような浮かれた雰囲気とは少し違い、一年間の労働を終えた人々の安堵感と、素朴な喜びに満ちていた。

 その温かい空気の中、私は、ただ見ているだけでは飽き足らなくなった。

「わたくしも、収穫の喜びを分かち合いたいのです!」

 そう宣言すると、私は、男たちが麦の束を木の棒で叩いている「脱穀」という作業に、おもむろに参加しようとした。


 もちろん、お嬢様育ちの私に、そのような重労働が務まるはずもなかった。振り上げた木の棒は、あらぬ方向へ飛び、舞い上がる粉塵に「ごほっごほっ」と咳き込み、たちまちのうちにアンナに「おやめなさいませ! お身体に障ります!」と腕を引かれる始末である。

 その無様な姿に、周りの領民たちは、最初こそ驚いていたものの、やがて堪えきれないといった様子で、朗らかな笑い声を上げた。レオが「お嬢様、コツは腰の入れ方ですよ」と手本を見せ、コンラートが、私が振り回す棒が誰かに当たらないかと、ハラハラしながら見守っていた。


 一仕事(の真似事)を終えた後、広場では大鍋で煮込まれたスープと、焼きたてのパンが振る舞われた。汗を流した後に食べる、屋敷の洗練された料理とは全く違う、野菜と麦の香り高い、素朴だが滋味深い味わい。私は、その美味しさに衝撃を受けた。

「美味しい……! これが、労働の対価として得られる『味』というものなのですね!」

 生まれて初めて、「お腹が空く」という感覚と、「食べ物が美味しい」という感動が、これほどまでに強く結びついていることを、私は知ったのである。


 ***


 日が暮れ、広場の中心で大きな焚き火が焚かれると、祭りはクライマックスを迎えた。素朴な笛と太鼓の音に合わせて、領民たちが手を取り合い、大きな輪になって踊り始めたのだ。神と、この土地の恵みへの感謝を表す、伝統的な踊りだという。


 最初は、その輪を遠巻きに眺め、「なるほど、音楽と反復運動によって、集団的な高揚感を生み出しているのですね」などと分析していた私であった。だが、一人の皺くちゃの笑顔の老婆に「お嬢様も、さあさあ」と手を引かれ、私は、抗う間もなく踊りの輪の中へと引き込まれていた。

 どうしてよいかわからず、戸惑う私に、レオが楽しそうにステップの手本を見せる。コンラートは「私は、警護に徹しますので」と固辞していたが、結局は子供たちに両腕を引っ張られ、石像のようにぎこちない動きで、輪に加わる羽目になっていた。


 同じ音楽、同じステップ、同じ笑顔。

 言葉を交わさなくても、手を取り合うことで、人々の素朴な喜びや、一年を無事に終えた感謝の気持ちが、じんわりと伝わってくる。

 ああ、これは「共同幻想」などという、冷たい言葉で片付けられるものではない。

 これは、理屈ではなく、身体で感じる、人と人との繋がりそのものなのだ。

「神への感謝」とは、特定の神格への祈りというよりも、この一年、共に働き、共に生きてきた仲間たちと、この土地そのものへの、素朴で温かい感謝の念の表明なのだ。

 私は、踊りの輪の中で、いつの間にか、自然に笑っていた。


 ***


 祭りが終わり、屋敷に戻る馬車の中、私の手には、領民の子供がくれた、麦わらで作った素朴な人形が握られていた。

 今日の体験を通して、私は、自分が「領主の娘」であることの意味を、初めて肯定的に捉えることができた気がした。それは、ただ贅沢な暮らしを享受する特権階級ではなく、この土地と、ここに住む人々と共に生き、彼らの幸福を願う責任を持つ存在なのだ、と。


 自室に戻った私は、小説の原稿に向かった。

「マダム・キュピドン」の新作は、王侯貴族の華やかな恋愛模様だけではなく、物語の背景にある、土地や人々の暮らしにも、温かい筆致が向けられるようになった。ヒロインが、ヒーローの領地を訪れ、その土地の人々と交流するシーンを、私は生き生きと描き出した。


「『神への感謝』の正体は、神学書にも、哲学書にも書かれていなかった」


 私は、窓辺に、その麦わらの人形をそっと置いた。


「それは、土の匂いと、汗のしょっぱさと、焼きたてのパンの味の中にあった。そして、同じ輪の中で、同じように笑う人々の温かさの中に。我が領地(世界)は、私が思っていたよりも、ずっと豊かで、優しい物語に満ちていたのである」


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