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第一章 邂逅論 ~運命的出会いの演出方法~

 およそ小説における「出会い」とは、宇宙の創生にも等しいビッグバンなのである。混沌のなかにあった二つの魂が、初めて互いの存在を認識し、引かれ合い、やがて一つの物語を紡ぎ始める。その荘厳なる第一局面を、安直な偶然や手垢のついた奇跡で汚すことなど、私には断じて許容できぬことであった。


 我が名はセレスティナ・フォン・クラインフェルト。クラインフェルト伯爵家の令嬢にして、自室の書庫『叡智の迷宮』に引きこもること早二年。そして何を隠そう、巷の淑女たちを甘美なるため息の渦に巻き込んでいると噂の恋愛小説家、『マダム・キュピドン』とは私のことなのである。あたかも酸いも甘いも噛み分けた妖艶な未亡人を彷彿とさせる、我ながら実に悪趣味な筆名ではないか。


 その私が、今、深刻な壁に直面していた。新作『公爵様の不器用なる求婚』の第一章、その冒頭にて、我が筆は見事に立ち往生していたのである。主人公たる公爵令嬢イザベラと、騎士団長アレクシスの出会いが、まるで湿った薪のように、うんともすんとも言わぬのだ。


「ああ、嘆かわしい! 我が創造物キャラクターたちは、邂逅の産声すら上げられずにいる。これは由々しき事態ですわ!」


 私が頭を抱えて長椅子に身を投げ出すと、すっと影が寄り添った。いつの間にやら部屋に入ってきていた侍女のアンナが、銀の盆に載せたハーブティーを差し出しながら、涼しい顔で言う。


「また始まりましたか、お嬢様。お言葉ですが、産声を上げるのは赤子であって、出会いではございません」

「アンナ! あなたには私の芸術的苦悩がわからないのですか! これは、物語の存亡に関わる大問題なのですよ!」

「左様でございますか。それよりも、そろそろ社交界へのご準備を始められませんと、お父上様からの催促のお手紙が、お部屋の床を埋め尽くしてしまいますが」


 アンナの現実的な指摘は、いつもながら私の壮大なる懊悩を、ちっぽけな床の染みへと貶める。社交界。詰まるところ、現実の殿方たちがうようよしているという魔窟である。冗談ではない。現実の男性など、我が小説のヒーローたちのように、気の利いた台詞を囁いてくれるわけでも、絶妙な間合いで壁ドンをしてくれるわけでもないのだ。きっと、何を話してよいかわからず、もごもごしているに違いない。想像しただけで鳥肌が立つ。


 私はおもむろに立ち上がった。ハーブティーの湯気が、あたかも天啓の如く私の顔を撫でた。そうだ。そうなのである。


「アンナ、わたくし、閃きましたわ」

「嫌な予感しかいたしません」

「現実が小説に追いつかぬのならば、現実を小説に近づければよいのです! これよりわたくしは、『運命的出会い』を学術的に分析し、この屋敷内で完璧に再現するための、壮大なる実験を開始します!」


 アンナが、実に綺麗な作法で淹れたハーブティーを、自分で一口飲んで落ち着こうとしているのが見えた。彼女の沈黙は、半ば呆れ、半ば諦観に満ちた、肯定と受け取って相違あるまい。


 かくして、私の革命的なる研究の幕が上がったのである。


 ***


 最初の課題は、古今東西の文献から「運命的出会い」の最適解を導き出すことであった。私は聖域たる書庫『叡智の迷宮』に籠もり、埃の舞を星々の煌めきと感じながら、片っ端から頁をめくった。


 騎士道物語における「危機的状況下での救出・被救出型」。悲劇に散見される「敵対する家同士の舞踏会での密会型」。どちらもドラマ性は高いが、竜や盗賊、あるいは敵対する貴族を準備する手間を考えると、引きこもりの私には土台無理な相談である。


 その時、一冊の大衆娯楽小説が私の目に留まった。『パン屋の娘と子爵様』。実に下世話な題名だが、そこにこそ真理は隠されていた。そう、「廊下の角における衝突事故型」である。


 これだ。これに違いない。最小限の設備投資、すなわち我が屋敷の廊下を用いるだけで、最大限の劇的効果を期待できる。私は自室『作戦司令室』へと駆け戻り、壁に貼り付けた巨大な羊皮紙に、羽ペンを走らせた。衝突時の最適速度、散乱すべき小道具の選定、衝突後の起き上がり方に至るまで、極めて緻密な計画書『邂逅論・序説』は、瞬く間にインクの染みで埋め尽くされていった。


「アンナ。この歴史的実験の男性役を、騎士のコンラートに命じなさい」

「……コンラート、でございますか」

「ええ。彼は朴訥で口が堅く、何よりわたくしの命令に忠実ですわ。この繊細な実験の協力者として、彼以上の適任はおりますまい」


 アンナは何も言わず、ただ遠い目をして部屋を出ていった。やがて、実に気の毒そうな顔をしたコンラートを連れて。


 ***


 長い廊下の、見通しの悪い角。そこが、我々の実験場と化した。


「よいですか、コンラート。わたくしが合図をしたら、あなたはこちらへ、わたくしはそちらへ向かって走り、この角で劇的に衝突するのです。いいわね?」

「は、はあ……。しかし、お嬢様のお身体に何かあっては……」

「案ずることはありません。すべては計算の上ですわ。さあ、始めます!」



 第一実験、【純粋衝突】。


 合図と共に、私とコンラートは走り出した。そして、角でぶつかった。正確に言えば、鋼鉄の壁に豆腐が叩きつけられたようなものだった。私は紙くずのように弾き飛ばされ、手足の長い虫の如く床に転がった。全身を打った鈍い痛みだけが、そこにあった。


「だ、大丈夫でございますか、お嬢様!」

「……ふむ。コンラートの質量と、運動エネルギー保存の法則を考慮に入れていませんでしたわ。これではただの事故。ロマンスの欠片もありません」



 第二実験、【小道具の導入】。


「衝突時に、散乱すべき『何か』が不足していたのです」と私は分析し、書庫から運んだ数冊の本を抱えた。コンラートには、アンナが悪戯っぽい笑みを浮かべて持たせた、洗濯物のカゴを持たせた。


「行きますわよ!」


 再び、衝突。今度は見た目だけはそれっぽかった。本と、真っ白なシーツが、スローモーションのように宙を舞った。だが次の瞬間、私の頭上には分厚い『紋章学大辞典』が落下し、目の前には、見覚えのある私のシュミーズがひらりと舞い落ちた。コンラートはそれを見て、茹でダコの如く真っ赤になって固まっている。現場は混沌に包まれた。


「……次は、言葉ですわ。衝突後の『言葉』と『視線』こそが、運命を決定づけるのです!」



 第三実験、【言の葉の錬金術】。


 私は床に可憐に(あくまで計算上は)倒れ込み、コンラートがその手を取る、という段取りだ。彼は「お嬢様、お怪我は…?」と囁き、我々は情熱的に見つめ合う。完璧な筋書きである。


「お、おおお怪我は、ご、ご無事でありましょうや!?」


 どもりすぎである。しかも、至近距離で覗き込んでくる彼の顔。現実の男性の顔。私は、その距離に耐えきれなかった。


「ち、近すぎます! あなた、無礼ですわよ!」


 思わず絶叫し、その手を振り払ってしまった。ああ、私としたことが。自己嫌悪で床にうずくまっていると、不意に、陽気な声が降ってきた。


「おやおや、お二人さん。昼間っから情熱的ですなァ」


 見れば、庭師のレオが、剪定鋏を片手にひょっこりと顔を出していた。

「楽しそうなことをしてますな。お嬢様、本当の出会いってのは、もっとこう、不意打ちですよ」

 そう言うと、レオは私が落とした本を拾い上げ、私の手の甲にそっと触れた。

「おや、こんなに綺麗な指がインクで汚れている。あなたの美しい瞳には、愛の詩集の方がお似合いだ」


 なっ……!

 軽薄な、実にお決まりの台詞。だが、その不意打ちに、私の顔にカッと熱が集まるのがわかった。私は慌てて身を起こし、咳払いをする。


「……な、何を言うかと思えば。ですが、まあ……参考意見として、記録しておくことにやぶさかではありませんわ」


 震える手でメモを取り出そうとする私を見て、アンナが深々とため息をついた。


 ***


 自室に戻った私は、アンナの淹れてくれたカモミールティーで、どうにか平静を取り戻していた。今日の実験結果を、私は『恋愛作法大全』の第一章として、冷静に、学術的にまとめた。


『結論。運命的出会いとは、計算され尽くした物理法則と、俳優顔負けの演技力、そして不測の事態にも対応しうる強靭な精神力によって成立する高等遊戯である。現在の我々の練度では、時期尚早と言わざるを得ない』


 実に、的確な分析である。私は満足してペンを置いた。

 だが、どうしたことだろう。目を閉じると、計画にはなかった出来事ばかりが思い出されるのだ。私の身体を案じたコンラートの不器用な優しさ。レオの小生意気で、けれど妙に心に残る言葉。アンナの、全てを見透かしたような呆れ顔。

 それら計算外のノイズが、私の胸の内で、奇妙な和音を奏でている。


 私は、机に向き直った。

 新しい羊皮紙を取り出し、インク壺にペンを浸す。

 私の指は、もはや躊躇うことなく、滑らかに紙の上を走り始めた。私が書き出したのは、完璧に演出された出会いの場面ではなかった。


 ――公爵令嬢イザベラは、廊下の角で、無骨な騎士に突き飛ばされた。散らばったのは、彼女が隠れて読んでいた、いささか下世話な恋愛小説。真っ赤になってそれをかき集める彼女に、騎士はどもりながら、それでも必死に手を差し伸べた。それは、お世辞にも運命的とは言えない、なんとも締まらない出会いであった。だが、運命の歯車が、錆びた音を立てて軋み始めたことだけは、間違いのない事実であった。


 ふう、と息をつく。よし、書ける。

 出会いは果たされた。となれば、次に解決すべき命題は明らかである。すなわち、心の距離を縮めるための『言の葉の往復』、詰まるところ『書簡術』である。

 来るべき我がロマンスのため、そして何より、次なる章を書き進めるため、私の探求は、まだまだ終わらないのである。


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