記憶のフィルム
荷物を持ちながら駅のホームに出る。少し古ぼけた「春ヶ丘」という看板を見て帰ってきたのだと実感が湧く。改札を抜け、見慣れた街並みを眺める。
改札のすぐそばにある花壇には色とりどりの花が咲き誇っていた。
ふと足元が視界に入り、解けていた靴紐に気がついたので結び直し歩き始めた。
それからしばらく何度も通ってきた道を歩き、夕日の沈みかける頃にようやく実家に辿り着いた。
急に実家に帰ったからなのか、かなり久しぶりに実家に帰ったからなのか、両親はとても嬉しそうに歓迎してくれた。
しかし、今の心境としてもどこか気の抜けた返答しかすることができなかった。
懐かしい味の夜ご飯を食べ、慣れた感覚の風呂に浸かり、ぼーっとリビングで考え事をしていると、両親が昔のアルバムを持ち出してきた。
どうやら久しぶりに顔を見たことで追想の念が溢れたのだろう。
あまり自分のアルバムを見る機会もなかったので、一緒になって見ていると、一枚の写真が目に飛び込んできた。そこにはどこか今の面影を残した自分の幼い頃の自分が、つい先日までファインダーの向こうに映っていた少女の姿と変わらない少女が映っていた。
「え?この子...」と指を指し呟くと、
「あらぁ覚えてるの?小春さんのところの娘さんのこと。昔はよく一緒に遊んでたものね。なんて名前だったかしらね。」と母は懐かしむように教えてくれた。
写真の中の少女は幼い頃の僕と手をつないでこちらに笑顔を向けていた。
「...今生きてたらすごい美人さんになってたんでしょうね。」
そう話す母を見ることが出来ずただただ写真を見つめ続けていた。写真の中の彼女はいつも見せてくれていたような眩しい笑顔を見せていた。
そんな僕の状態を見て母が、「今日は帰ってくるので疲れたでしょ。風呂に入って早めに寝なさい。」と、言ってくれた。その言葉に甘えて何も手につかなくなっていた僕は寝床についた。
久しぶりに出したと思われる少し埃の匂いがする来客用の布団にくるまって天井を見上げた。
昔から見慣れていたはずの天井なのに、なぜか自分の記憶が揺らいだように感じられた。
カーテ4んの隙間から溢れる朝日の煩わしさで目が覚めた。
階段を降りた先では母親が朝食の準備をしていた。
なんとなく外の空気が吸いたくなったので、一声かけてからふらっと外に出てみた。
外は夏の暑さを予感させるような日差しが降り注いでいた。
家を出ていく宛も決まっていた訳ではなかったので、気の向くままに足を動かした。
少しだけ記憶と違っていたから気がつくのが少し遅れた。
その道をいくらか歩いて気がついた、ここは通っていた小学校に向かうための通学路だった。
まだ少し早い時間だったためか通学路には小学生の姿は一人も見当たらず、自分ただ一人がポツンと取り残されたように感じた。
うっすらと寂しい気持ちになりながらもあの頃のように通学路を踏みしめていく。
そうして少し進んだ先に人影を見つけた。
よく目を凝らしてみてみると、それは男性のようだった。
まさかと思い、少し足に力を込めてその男性に近寄っていく。
「お久しぶりです。」
そう言ってあの頃の担任だった先生に声をかける。
こちらを振り向く男性の姿は、あの頃と違い幾らか老いを感じさせるような姿ではあった。
けれど、あの頃と同じようなその優しそうな眼差しだけは心が覚えていた通りだった。
そうしてこちらを向いた彼と目が合った時、昔の教え子のうちの一人である自分のことなんてわからないだろうと思い再度口を開き自己紹介をしようとした時だった。
「まさか、景真くんか?」
先生はそう言って驚いた顔をしていた。
「覚えてくださったんですね」
驚きと嬉しさが込み上げていた。
「あの頃は二人に手を焼かされたからな、物忘れが激しくなった今でも覚えてるよ。」
そう言って先生は笑顔を浮かべた。
どうやら先生はもうすでに先生ではなくなっていたようだった。
引退してからも毎朝学校までの道を健康のために歩いていると聞いて
それから近くの公園に寄り昔の話をたくさんした。
あの頃、誰よりも好奇心旺盛で、みんなの先頭に立っていたこと。
そんな自分をいつも見守っていてくれたこと。
小さい頃に親に譲ってもらった安いカメラを学校に持ち込んで怒られたこと。
そんな様子を見て写真部を作ってくれるように教えてくれたこと。
そして、いつも一緒にいた彼女のことを。
「君とあの子はいつも一緒にいて、どこにいくのも何をするのも楽しそうにしていたね。
生きていたらきっと今でも二人で一緒にいたのかもしれないね。」
少し悲しそうな色を浮かべた声で先生はそう言った。
幾らか話した頃、スマホに母親からの連絡が来ていることに気がつきそのまま先生と別れ家路に着いた。
家に帰り朝食を食べた後、荷物の整理や母親の頼みを聞いて時間を過ごした。
しかしどうしてもあの写真が気になり再び写真を見てみると、とあることに気が付いた。
この写真が撮られている場所に激しい既視感を覚えたのだ。
写真の端に小さな祠のようなモノと、後ろに花畑が広がっていたのだ。しかし、この祠自体には見覚えはなかった。
母に撮影した場所を尋ねてみると、どうやら近くの山の頂上付近らしい。
場所を聞いた僕は母が話の続きをしているのも放って、玄関から飛び出した。
短くない時間を過ごし、あちこちに思い出の詰まっている町中を通り抜け、一直線に母の教えてくれた山に向かう。
息が上がり始め、額にじんわりと汗を噴き出し始めても足が止まらなかった。
しばらくすると、山道が続く道に出た。
上がり切った息を整えて一歩を踏み出す。山道はあまり人が来ないのか少し荒れていた。
しばらくすると奇妙な感覚に囚われた。
昔仲の良かった女の子とこの山で遊んでいた記憶が、彼女の楽しそうな表情が浮かんできた。
自分の記憶のはずなのに初めて見るようなそんな感覚で、どこか夢を見ているように感じられた。
日のたかいころに家を出たはずなのに、いつしか太陽はその身に赤色を帯び始めていた。
見覚えがなかったはずの道が、懐かしさのあふれる道に感じ始める。
何度も何度も通った道の感触を体が教えてくれる。
中腹を少し過ぎたくらいで小さな休憩所に辿り着いた。
木造のそれはどこか温かみを感じさせる小さなものだった。
流石に疲れていたのか、自然と身体が休憩所のベンチに吸い寄せられる。
少し休みまた先に進もうとした時、この先には別れが待っているような気がした。いや、これは気のせいなんかではなく確信だった。
このまま足を踏み出さなければ、このまま来た道を戻れば。別れを言わなくても済むような確信が。
けれど同時に分かっていた。この先に進まないと彼女には二度と会うことが叶わないとも。
足から根が生えたように、腰が鉛になったかのように体が動こうとしなかった。
それでも、心がこの先の景色を見なければいけないと訴えていた。
相反する状態にどうすればいいのか分からず視線が自然と下に下がる。
腰を下ろし休んでいたベンチを改めてみてみるとどこか見覚えがあることに気がついた。
ベンチから腰を上げ、地面に這いつくばる。このベンチで彼女の願いを聞いた気がする。
温かくなり始めていたベンチの裏には相合傘の下に「けーま」「しおん」と彫られていた。
その時、彼女の事を、小春紫苑の事を思い出した。
いつからかはわからないが、よく遊んでいたこと。
どこに行くにも一緒にいたこと。山頂の景色が一番好きだったこと。
大きくなったらけーまのお嫁さんになりたいと言っていたこと。交通事故でその命を失ったこと。
小さい頃だったこともあり、そのショックですべてを忘れていたことを思い出した。
いや思い出せないように記憶に蓋をしていたのだ。見たくない思い出を目にしなくて済むように。
そして山頂での、もう一つの約束を思い出した。
「いつか有名なカメラマンになったら、一番綺麗な紫苑の写真を撮る」
そんな約束を、大切な約束を忘れていたことに殴られたような衝撃を覚えた。
いつしか体は自然と山頂へ続く道へと足を踏み出し始めていた。
視界が滲む。それでも腕を振り思いっきり走る。
石に躓きこけても、木の枝で傷が出来ても足を止められるわけがなかった。
徐々に視界が開け、早くなっていた足の動きが止まった。
山頂の空は澄み切った綺麗な夕焼け空で、どこまでも広がっていた。
逸る気持ちを抑えながら懐からカメラを取り出す。
ファインダーを覗くと、そこに紫苑がいた。
何を言えばいいのか分からなかったがそれでも口が勝手に動いた。
「僕はまだ有名なカメラマンにはなれてない。」
カメラが壊れてしまうほどに手に力が入るがそんなことはどうでもいい。
今伝えられる最大限の思いを、心からの声を伝えたかった。
「でも、それでも、誰よりも紫苑を撮ってきた。写真には映らなかったけど、景色を見る紫苑は何よりも綺麗だった。」
伝えたい言葉は、思いは、溢れ出るほどにあるのにこの口では伝えきれそうにもなかった。
だから、この心を一枚の写真に預けるように。涙をぬぐいながら、震える指に力を籠めシャッターを押す。
ファインダーの向こうの紫苑はあの頃のように眩しい笑顔を浮かべながら口を開いた。
「ありがとう。」
言葉は聞こえなかったが、確かにそう聞こえた気がした。
そして彼女は光の中に消えていき、ファインダーの向こうでは夕焼けに照らされたハルジオンが風に吹かれ春を感じさせるだけだった。
白い壁に囲まれた無機質な部屋の前でいつものように深く呼吸をする。
扉の奥に見えるスーツの編集者はあまり期待できないと顔に書いた表情を浮かべていた。
それでも、今までと違うことが一つある。今の自分には約束がある。
二度と忘れない約束を胸に、一歩を踏み出した。