白飛び
ある日の朝、その日は目が覚めた時から何だか思考に靄がかかったように感じられた。
カーテンを開け、眩しい朝日の光を浴びても、依然として心地悪さは消え去ってくれなかった。
その後顔を洗ったり、朝ごはんを作ったり、服を着替えたり、いつものように朝の雑事をこなす。
今日は、少し前に見つけた花畑に行くための準備がてら街をフラフラしようと考えていた。
その花畑は小高い山の頂上付近に位置しており、少し前に見たあの白い花がたくさん咲いている花畑だった。
いつもと変わらないカメラと荷物を持ち、いつものように気の向くままに出かけ写真を撮ろうと玄関の扉に手をかけた。
けれど何かを無くしてしまったような胸騒ぎが止まらなかった。
落ち着いて一度部屋に戻り荷物とカメラを点検した後、何も忘れていないはずだと確認し、今度こそ家から足を踏み出した。
それでも、背後霊のように薄寒い何かの感覚を拭い去ることはできなかった。
出かけてすぐに靴紐が切れたり、少し歩けば犬の糞を踏んだり。黒猫が前を横切った時にはもはや笑いすら出てこなかった。
ここまで立て続けに悪いことが起きたのもあり、さっさと用事を済ませて今日は家でゆっくりしようと考えた。
まずは、少し高めの山を登るということもあり、今まで履き潰していた靴では少し心もとないのでしっかりとした靴を買いに行くことにした。
移動の最中、ふと女性用の小物を扱う店を見かけた。というより、店の一番前で陳列されていた白い花のあしらわれたヘアピンに目を奪われた。
彼女に渡すことなどできるわけがないと、わかっていた。それでも、気がつくとレジで会計をしていた。
渡すことのないプレゼントなんか、無価値のようにすら考えられる。けれど、自然と口角が上がっているのがわかった。
改めて、目的の靴屋に訪れ、さっさと購入した。
そのままの流れで、近くの店でいつも使っているものより少し大きめのカバンを買うことにした。
またも店を探して足を動かしている時、ふと足が止まった。視界が捉えていたのは、控えめにフリルのあしらわれている真っ白なワンピースだった。
成長して大きくなった彼女がそのワンピースを来て楽しそうに回るのに合わせて、ふわりとスカートが広がる様子を簡単に想像できた。
傍目には女性モノのワンピースを見てニヤニヤしているだけで気持ち悪かっただろうが、心はどこか弾んでいた。
それからあまり時間をかけることなく目的のものを買い揃えたので、寄り道せずにさっさと帰路についた。
家まで向かう途中で、彼女と初めて出会った近くの公園が見えたので何の気なしに立ち寄った。
公園のベンチに腰掛け、ぼんやりと景色を眺める。
腰を据えてみることで前に来た時から少しずつ変化が起きていることに気がついた。
日差しが少し強くなり、淡かった青空が澄み切っているようにも見える。
うっすらと感じられていた花の香りも、今では草木の青々とした匂いにとって変わられているようだった。
それでも遠くに見える花壇は、白い花を咲かせていたのでどこか安心感を求めて近寄っていった。
視界の中の白い花が近づくに連れて、違和感を抱かせた。
その違和感の正体に間近まで近寄ってやっと気がついた。かなり姿形は似ているが、最近見ていたことで確信できた。
これはヒメジョオンで、あの時見ていた花とは違うことが。
手に持っていたカメラを急いで起動し構える。理由なんて言語化することもできなかった。
ただ、胸騒ぎが、本能が体を動かしていた。
ファインダーの向こうにはただ、先程まで見ていた光景が映し出された。
心臓の鼓動が煩く、嫌な汗が背中を伝うのがわかった。
震える手を無理やり押さえ込みながらカメラを周囲に向ける。
しかし、誰もいない公園で、見えないはずの誰かを見つけることは遂にできなかった。
願いもむなしく公園には本当の意味で自分独りきりだった。
そもそもの話、今までも独りでいたはずだったのだ。ただ、見える視界の中に情報が少し少なくなっただけなのに拠り所をなくしたように感じていた。
その日はシャッターボタンを押す指が酷く重たく結局一枚も写真を撮ることが出来ないまま家に戻った。
それからというもの、彼女を探しながらこれまで訪れた景色を巡っていた。
けれどそのどれにも彼女を見つけることが出来ず、いくらカメラを構えても写真を撮る気すら怒らなかった。
基本的に毎日更新しており、彼女と出会ってからは欠かすことなく投稿していたSNSもここしばらくは触れることすらなく放置していた。
そんな折、急に母親から電話がかかってきた。
「もし何も予定がなければでいいけれど、一度実家に寄ってくれないか」というものだった。
訳を聞くと、どうやら密かにSNSを見ていたらしくここ数日更新していないことで何かを感じた母親なりに心配してくれていたようだった。
考えることに疲れていた僕は流されるように実家に帰ることに決めた。
実家に向かう電車の中で一人考える。
彼女がこの光景を見たらどんな表情をするのだろう。いつものように目を輝かせて喜んでくれるのだろうかと。
窓の外は穏やかな陽に包まれており、流れていく景色にどこか懐かしさを覚えていた。
街中の慌ただしさから少しずつ離れていくにつれて、緑の占める割合が増えていき良くも悪くも田舎に向かっていると実感した。
車内はあまり人がおらず、静かな空間だった。
しばらく電車の揺れに身を任せていると、次第に瞼が重たくなってきていた。
気がつくと、花畑の前に立ち尽くしていた。白い花の咲き誇る花畑を見て、自然と感じた。
これはきっと夢だろう、と。その花畑では、数えきれないほどの白い花がゆらゆらと躍り春を楽しんでいた。
ふと人の気配を感じ、視線を少し上げるとそこには誰かがいた。その子はこちらに向かって、小指を向けていた。
自然と身体が動き、同じように小指を差し出し、絡めようとした時だった。
何処からか、声が聞こえる。
「...は終点、春ヶ丘。春ヶ丘です。お忘れ物のございませんようお気お付けください。」
いつの間にか眠りに落ちていたようだった。ふと気が付くと頬が濡れていた。
目をこすりながら窓の外を眺める。見慣れた故郷がそこにあった。