プロローグ
俺——最上 悠が生まれる前から家にいた黒猫、杏姉さんは、じいちゃんの遺影の前で香箱座りをしていた。
ときおり首を小さく動かして、目を細めている。
ばあちゃんの時も、同じだったな。
まるで何かが見えているように。
がらんとした居間に、湯気も消えかけたお茶が一杯。
最後の肉親だったじいちゃんが逝き、静けさがひときわ際立つ。
——いろいろ手続きもある。大学もしばらく休まないと。
「にゃーん」
「……散歩、行きますか?」
杏姉さんは家猫ではあるが、完全室内飼いではない。俺と一緒によく散歩をしていた。
ただ姉さんも二十二歳。
ひとりで歩くのも厳しいので、お気に入りのクッションを敷いた籠にそっと入れて、ブランケットをかけて籠を持ち上げる。
外の空気は、秋と冬の境界線のようだった。
鼻をピクピクと動かす杏姉さん。たぶん、匂いで季節の変わり目を感じてる。
「寒くなってきましたね」
「にゃーん」
歩みを進めたのは、家からすぐの小さな神社。
喪中に参拝はよくないと聞くが、ここは毎日のように通っていたとこだし、神様もきっと目をつぶってくれるだろう。
通い慣れた道も、今はひとつひとつが重い。
数日前まで、じいちゃんもいた。
杏姉さんも、いずれはいなくなる。そのことを考えるだけで、心が沈んでいく。
……ダメだな。こんな時こそ、しっかりしないと。
神社の鳥居をくぐる前に軽く一礼し、中央を避けて進む。賽銭をそっと入れ、二礼だけ済ませて静かに腰を下ろす。
籠を横に置き、姉さんを膝の上に抱き上げて少しボーっと空を見上げる。
月が、思ったより低い位置にあった。
なんだ、この違和感。
手の中の杏姉さんの体が、妙に冷たい。
心臓に触れると、脈がない。
「姉さん!? 姉さん!!」
揺さぶると、迷惑そうな顔でちらりとこちらを見る。
「よかった……すぐ病院に行こう!」
「にゃーん」
か細い鳴き声。どこか、「もういい」と言っているような気がした。
「だめですよ……俺を、ひとりにしないで」
杏姉さんが、また目を閉じる。
心音はある。でも弱い。どんどん遠のいていく。
もっと怒ってくれよ。撫ですぎたって、文句を言ってくれよ。
——返事は、なかった。
そのとき。
カラン、カラン……風に揺れる鈴の音が、不自然なほど長く響き渡る。
数秒、数十秒経っても鳴り止まない。
空気が、静かすぎる。
「面を上げなさい、迷える子、最上 悠よ」
女の声。聞き覚えはない。
いや、夢の中で一度だけ聞いたような、そんな感覚。
「面を上げろって言ってるじゃろがあ!」
「うるさいなぁ!」
今は姉さんを見てるんだよ!
反射的に顔を上げると、拝殿の扉がひとりでに開かれ、まぶしい光が漏れていた。
声の主は——子供?
いや、最初は威厳があったけど、今のは明らかに小娘。
「うぉっふおん、迷える子よ。そのモフモフを、救いたいか?」
「幻聴? 幻覚? それとも……本物?」
「本物に決まっておろう! そなたの動物にだけ心を開く陰キャ体質と、人並み以上に善良なその行いを評価しておる!」
褒められてる……のか?
「サイゼ様、台本通りに」
「わかっておるわ!」
あれ、今もうひとりいた?
なんかお手頃価格のファミレスみたいな名前だな。
「うぉっほん、我は神なり。そなたの願い、叶えてやろう。ただし——」
宙に浮かぶ契約書とペン。
条文が多すぎる。文字が小さい。え、契約? 俺、転生するの!
「その猫の命を助けるのと引き換えに、そなたには異世界へ渡ってもらう。もちろん、癒しの力はつけてやるぞ」
大学の学費は惜しいが、もう家族はいないし、杏姉さんを助けられるなら——
「……わかりました。サインします」
ペンを取り、フルネームで書き記すと、紙は一瞬で光に溶けた。
「サイゼ様、確認できました」
「よし、それでは転送開始じゃ!」
★★★
レトロな六畳の和室。ちゃぶ台の向こうに、金髪ショートの少女が胡座をかき、その隣に褐色肌のポニーテール美女が正座している。
「ぬはっはっは! 上手くいったのう!」
「ですが、お父様に見つかったら……」
「心配性め! 先人も言っておる。バレなきゃ問題ない、ルールは破るためにあると!」
「……石に耳あり、ですよ?」
「ガハハ! 石に耳があるわけなかろう!」
本日、2話まで更新予定なので気に入っていただけたら、評価、ブクマをいただけますと幸いです。