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洗礼編-6

 礼拝が終わると、礼拝堂のそばにある応接室に向かう。

 奥様が話があると言うので、お茶も出して、隆さんも呼ぶ。本当は奥様は牧師さんも呼びたいそうだったが、信徒さんからの質問の答えたりして忙しい。


 奥様からしたら隆さんは、私の保護者代わりに見えるのだろう。確かに年齢も10つも違うし、私と隆さんは兄妹にしか見えないのだろう。


 客観的に見れば、私が隆さんを想う気持ちは不自然なのかも知れない。そう思うと胸がチクチクしてくるが、今は奥様の話を聞く事の集中しなければ。


「昨日はありがとうね。あれから絵里麻の身体の調子もだいぶ良くなった。たぶん、完治できる」


 奥様が素直にお礼を言っていて、やっぱり少し驚いてしまう。今日は、髪を整えて洋装ではあったが、今までの奥様の事を考えると信じられない事だ。


「あの西洋のお茶は何? あれ飲んだら、絵里麻もすごくよくなったわ」

「あれは、ハンスさんから貰ったものだよ。今日もハンスさんは奥さんと来ているから、本人に直接お礼を言った方がいい」

「そうね。色々あなたもありがとう」


 今日の奥様はやけに素直だ。まるで憑き物が落ちたように表情も晴れ晴れとしている。自分よりうんと歳上の奥様ではあるが、今日は少し若々しくも見えた。


「ところで話ってなんだよ」


 隆さんが話を進める。


「ええ。実はこれを返したいと思うの」


 奥様はかなり言いにくそうではあったが、カバンから「貯蓄預金通帳」と表紙に書かれた冊子を見せる。


「何、これ?」


 今まで一度も見た事が無いものである。


「志乃、これは貯金通帳だ。銀行の資産や取引が記録されているものだ」


 隆さんが教えてくれたが、あまりピンとこない。銀行にも行った事はないし、女中の給料は手渡しであった。


「これ、返すわ」

「は?」


 なにが何だか分からず戸惑っている私の代わりに、隆さんが通帳を受けとる。


 しかも通帳を凝視しながら、目を見開いている。


「何だ、これは? 志乃の家からかなりの額の金額の振り込みが…」

「神谷さん、これは志乃の家の遺産よ」


 その言葉の意味だけはわかり、私は言葉を失った。


「昨日、夫の遺品を整理していたら見つけたのよ。言っておくけど、私も夫も一銭も手をつけて居ないわよ。きっとあなたの将来の為に残しておいたのね」


 奥様の言葉一つ一つが胸に響く。そういえば旦那様は私の優しかったし、奥様や絵里麻の嫌味にも庇ってくれら事も多かった。


 そんな事をすっかり忘れて悲劇の主人公のような気分になっていた自分が情けなく、恥ずかしくもなってしまう。自分の身の上は別に不幸なんかではなかった。それなのに龍神に愛されて救って貰おうとしていたなんて、的外れもいいところである。喜ばしい知らせなのに、ついつい下を向いてしまった。


「それはいいが、奥さんは大丈夫か? そのお金の事とかは。間違っても娘を遊郭に売ったりするんじゃないぞ」

「馬鹿にしないでよ。そんな事するわけないじゃない」


 隆さんの言葉は心配しすぎのようだ。奥様は明らかに撫然としていたが、無理も無いだろう。


「細々と暮らせるだけの蓄えはあるから。真野さんがいる家は、お子さんが生まれて人手が足りないそうだし、女中として働こうかと思っているのよ」

「そんな綺麗な手で女中の仕事なんてできるか?」


 隆さんの言葉は一見すると嫌味っぽいが、表情や声はとても優しかった。心配しているのだろう。私も奥様が下々のするような仕事ができるかどうか疑問ではあるが。


「良いのよ。今までが恵まれ過ぎたのかも知れないわね。それに世界で大戦も始まりそうだし、どっちにしろ呑気な事を言える立場でも無いでしょ」


 そう語る奥様の横顔は綺麗だった。今までな意地悪な態度が嘘みたいであるが、村八部みたいな事をされて彼女も思うところがあったのかも知れない。


「じゃあね。銀行の手続きはまだ色々あると思うから、あとで一緒に行きましょう。まあ、とりあえず今日は帰るけど」


 奥様はすっと立ち上がり、私達に頭を下げて帰って行ってしまった。


 残された私と隆さんは、顔を見合わせる。


「このお金は本当に私のもの?」

「そうだ。両親が残したお金は一人娘の志乃が受け継ぐ権利がある」


 隆さんにはっきり言われたが、こんな金額は見た事も無いので頭がくらくらしてきそうだ。


 ただ一つわかる事はあった。


「これで私は絶対に遊女になる必要は無いのね?」

「だから、最初からそんな必要は無いんだってば!」


 隆さんの口調は荒いが、言いたい事はわかってしまう。きっとこの教会にいればどんなに貧乏になっても追い出される事はないという事を確信できてしまって胸がいっぱいになる。


「もし志乃が不当に借金を負ったら、俺が全部肩代わりするよ」

「そんな…」


 それはお金なんかと比べものにならないぐらい嬉しい事ではあるが、戸惑ってしまう。


 ただ、一つだけワガママを言いたいと思った。たぶん、こんなワガママを言うのは最初で最後だろう。


「このお金は私の生活費にして下さい。あと、出来ればで良いんですが、このお金で学校に通いたいです! できればミッションスクールに通いたいです!」


 こんな勇気がいる事は始めてだったかも知れない。でも、自分の言いたい事はハッキリと言葉にしないと伝わらない。言葉を使ってちゃんと口を開けて伝えよう。


 そんな私を見て、隆さんは大笑いをしていた。


「わかった。春から学校に通え」

「本当? 良いの?」

「本当は俺の金で通わせたかったんだがな」

「え?」


 その声は聞き取れなかったが、春から女学校に通える喜びで溢れていた。

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