再び火因村編-2
隆さんは土曜日で、半ドンでいつもより早く帰ってきた。
いつもだったらこの時間は字や聖書を教えてくれる時間であったが、書斎の文卓の前のしても、なかなかそこにはいかなかった。
むしろ、隆さんは少し考え込んだような難しい表情をしていた。
ちょっと重い空気が流れたので、湯をわかし緑茶を淹れて持っていった。お茶請けに豆大福も持っていく。
豆大福は教会の信徒さんからのお裾分けで、今日の昼間にもらった。久々に食べる甘味に私はちょっと笑顔になってしまう。
龍神の所では菓子も大量に与えられていたが、ほとんど食べられなかった。そもそも食事も豪華であったし、菓子までお腹に入れられなかった。
こんな風にたまに甘いものを食べるから、有り難みがあるのかも知れない。しかも意図して買ったものではないもので、偶然の幸運が余計に嬉しい。
「私って運が良いのかも知れないわね」
豆大福を食べ終え、ぽろっと本音が溢れてしまった。
「何でだ?」
ちょっとびっくりした様に隆さんがいう。見た目は少し厳しい人であるが、最近感情表現が豊かな人だと気づく。そうでないと小説も書けないのかも知れない。今は新作の執筆中という事だが、早く彼が作る世界をのぞいて見たいとも思う。
「だって豆大福はとても美味しいし」
「意外と志乃は食い意地が張ってるな」
「え? そう?」
「いや、冗談だよ」
思わず二人して笑ってしまう。最近は勉強中でもありながら、こうして笑ってしまう事が多かった。相変わらず隆さんに注意される事は多いが、どれも筋が通っているし出来るとちゃんと褒めてくれる。第一印象は怖そうな人であったが、今は全く逆の感情を抱いている。とても優しくて真面目な人。
「それに私は死んでもおかしくない身の上だったのよ? こうして生きているだけで十分だわ。もう何も望む事はないの」
この言葉の紛れもない本音であったが、なぜか隆さんは苦い顔を見せていた。
「本当に欲しいものはないのか?」
「聖書をもう一冊欲しいかも。書き込みがいっぱいで読みにくくなってしまったから」
「いや、そういうんじゃなくてさ。豆大福いっぱい食べたいとか、綺麗な着物を着たいっていうのは無いの?」
珍しく隆さんが俗っぽい話題をしている。なぜこんな話題をしているかわからないが、今は本当に望むものなどはなかった。
生きている事はもちろん、神様が自分の罪を負って死んでくれた「福音」以上に大切な事はあるだろうか。この事を考えると全てが色褪せて見えるものだ。当然、龍神から貰ったものも無価値なガラクタばかりである。
「志乃は学校とかは行きたくないのか?」
「学校……」
その提案は、少し自分の胸をざわつかせた。もっと字を勉強したいし、数字や英語も興味がある。別に自分は頭が良いわけではないが、こうして隆さんに勉強を教えて貰う事は好きだった。少しずつ新聞に書いてある事がわかったりするのも嬉しいし、勉強は嫌いではなかった。
しかし、学校に行くのは夢物語だ。
「本当は行きたい気持ちはあるわ。でも、そもそもお金も時間もないもの」
「時間ならうちの事ぐらい何とかなるだろう…」
「お金は?」
現実的な問題だった。自分には学費を払える能力はない。さすがのこの現実的な問題に隆さんも黙ってしまったようだ。
私はお茶を一口飲んで、笑顔を作る。
「そろそろ私も働きに出なくちゃね。お金持ちの家で女中の仕事が有れば良いんだけど、そうでなかったら遊女にな…」
「それ以上言うな」
珍しく口調が荒くなった隆さんに言葉を遮られてしまう。
「志乃。売春は罪だ。神様が悲しむ行為だぞ」
なぜ隆さんが怒っているのか理由がわかってしまい、私は俯く事しか出来なくなってしまった。
神様は一人の男と一人の女が一緒になる事を祝福していた。重婚や不倫は罪にあたる。もちろん複数の異性と交わる売春もそうだ。現実的な事で惑わされてしまったが、さっきの発言は悪いものだった。私はしばらく祈り、罪を悔い改めた。
この教会ではやっていないそうだが、娼館に突撃する宗派もある事を教えてくれた。東京の教会では遊女や虐待された子供の面倒を見ている専門の福祉施設も創設しているそうだ。この教会でもそんな弱い人々を受け入れている事を説明してくれた。今はたまたまそう言った女性が居ないだけらしい。そういえば初美姉ちゃんの母が遊女だったと説明してくれた事を思い出す。
「志乃、私たちはお前を追い出す事は絶対にないぞ」
「本当に?」
「ああ、絶対にそんな仕事はさせない。ずっとこの家にいて良いんだから」
あまりにも優しい言葉で、私は泣きそうになってしまった。
「隆さんもごめんなさい。もう二度とあんな事を考えたり、言ったりしないわ」
「ああ、神様が悲しむ事はするんじゃないぞ」
少し厳しいが、隆さんの言葉に深く頷いた。
「まあ、わかればいいんだ。ところで、お前の奥様と絵里麻って娘の居場所がわかったぞ」
「本当?」
隆さんは言いにくそうにしていたが、奥様と絵里麻の事を教えてくれた。
今は、二人とも火因村の家の帰り、あの女中部屋で暮らしているにだという。
「え、絵里麻は華族と結婚したんじゃ…」
「病気が悪化して追い出されたようだ。絵里麻という娘は西洋の疫病に感染したと噂がたてられ、対面を気にしたんだろうな」
「そんな…」
奥様や絵里麻の今の境遇を思うと胸が痛くなる。
「今も火因村の連中に差別されて、いわゆる村八部という状況だそうだ。まあ旦那の遺産の金はまだあるらしいが、病気で大変らしい」
「私は会わない方がいい?」
かえって奥様や絵里麻を傷つけてしまう様な気がした。
「いや、たぶんろくに医者にも診てもらえていないだろ。我々がハンスさんと一緒に行った方が良いかも知れない」
「え? 一緒についてきてくれるの? ハンスさんも?」
その提案に私は嬉しくなってしまった。
「何か栄養になる食べ物も持っていこう」
「そうね。奥様も絵里麻もよくなると良いけど…」
二人に持っていたわだかまりの様なものは、全て消えてしまっていた。自分だって完璧に良い人間ではない。二人を責める権利はなく、困っていたら手を差し伸べる必要がある。イエス様もいつも弱いものの味方だった。イエス様を信じる私も似たような行動をとりたいと思えて仕方がない。
「隆さん、奥様や絵里麻の事を調べてくれてありがとう」
ここまで良くしてくれた隆さんには感謝しかない。
「何かお礼は…?」
「そんなのは要らないよ」
隆さんは苦笑してそれを否定する。
「志乃は笑って幸せそうにしていれば良いんだから」
前にも似たような事を言われ、私の胸はいっぱいになってしまう。
「ありがとう、隆さん」
私はそう言う事しか出来なかったが、隆さんは口元に笑顔作って頷いていた。




