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初恋編-4

「せっかく半ドンで時間もあるんだし、今日は字や聖書の勉強をしよう」


 隆さんは、そう提案したが、太郎くんは勉強嫌いだった。


「えー、僕は字の勉強はいいよ」

「そんな事言うなよ。将来困るのは自分だぞ」


 隆さんは、ちょっと父親のように叱っていて、微笑ましい光景にクスリと笑ってしまう。


「えー」

「えーじゃないぞ、太郎。その点、志乃は何でも素直に聞いてくれるし教えがいがあるな」


 不意打ちに褒められて私の頬が少し熱くなる。隆さんに褒められるのは、初めてでは無いのにドキドキと胸が高鳴ってしまった。


 結局、書斎で隆さんと太郎くんと3人で字の勉強をする事になった。


 隆さんの褒められてちょっと時間も経っているのに、ドキドキとした気持ちはなかなか終わらない。


 そばで隆さんの顔をよく見ると、鼻筋に黒子があるなとか、髭の剃り跡も見えるなとかいちいち気づいてしまい、心臓は忙しく動いていた。つくづく太郎くんが一緒に居てよかったと思ったが、太郎くんはちょっと飽きてしまったようで、再び外に出かけてしまった。


 ちょっと狭い書斎で二人残されて私はちょっと緊張してしまう。ちょっと気分を変えるように本棚を見てみると、父の本がある事に気づいた。


「あれ、お父様が翻訳した本がある」

「うん? どれだ?」


 私は本棚からその本を引き抜き、文机の前に座っている隆さんに見せる。


『花嫁』という英国の恋愛小説だ。庶民の娘が、貴族の男性に出会い恋をする小説で、女学生が読むような少女小説雑誌に連載してされた後、本になった。私はよく知らないが、死んだ母によるとかなりこの本の売り上げが良く、家計も潤ったらしい。


「え、志乃って佐竹先生の娘さんだったの?」

「え、ええ。お父様はそんな有名?」

「有名も何も英語を教えている教師の中で知らない人はいないよ。こも『花嫁』だってすごく売れんだ」


 隆さんによると、『花嫁』は、英国の話だが、日本人でもわかるように生活の小物やセリフも大胆に日本風に翻訳されている。賛否両論はあるだろうが、読みやすさは一番なのだという。ヒロインの名前も洋書ではマリーだが、翻訳版では麻里子になっている。


 英国人のヒロインは耶蘇教の信者であるが、食前の祈りをするシーンがある。食前の祈りは志乃も毎日見ているから知っているが、この祈りの言葉は日本語で「いただきます」と訳されている。食事に「いただきます」というのは、この小説の影響も少なからずあるようだったと隆さんが話す。そういえば真野さんや絵里麻達は、「いただきます」とは言わなかった。人によって差があると思っていたが、その理由がわかって私は納得する。


 こんな所にも過去と今繋がっているようだ。耶蘇教の事など全くわからなかったが、少なからず影響も受けていたのかも知れないと志乃は思う。


 同時に龍神が「いただきます」という言葉を嫌っていた理由がなんとなくわかってきた。


「そっか。志乃は佐竹先生の娘さんだったのか」

「何か問題?」

「いや、私も佐竹先生の翻訳した本が好きだったからね。思わぬ偶然というか…」


 隆さんは珍しく呆然としているようだった。いつもは少し怖いぐらいだが、たぶんこの偶然を驚いて戸惑っているのだろう。


「そっか。だったら志乃にも教えてみようかな…」

「え?」


 呟くように言った隆さんの声はあまり聞き取れなかった。聞き返したが答えてくれない。


 変わるに文机の引き出しから、原稿用紙の束を取り出した。万年筆で書かれた丁寧な字が印象的だ。


「これ、何?」

「ああ、これは私が書いた小説だよ」

「小説? 小説家だったの?」


 私はちょっとワクワクした目で聞いてしまうが、隆さんはちょっと恥ずかしそうに鼻の頭を擦る。


「いや、色んな文芸誌や編集部に投稿している所だよ」

「でも、すごいわ。こんな量の原稿が書けるなんて」

「ま、ものになるかがわからないから、誰にも言っては居ないんだがな」


 という事は、自分にだけ打ち明けてくれたという事か。それがちょっと嬉しくて私は思わず顔を綻ばせてしまう。


「まあ、今はちょっと書く事もないというか、伸び悩んでいてさ。志乃はどんな感じの物語に興味がある?」


 急にそう言われても小説などろくに読んだ事が無いので戸惑ってしまった。


「そうだわ! 私が龍神の居た時の記憶は、ちょっと恋愛小説みたいだった。それを話してもいい?」

「まあ、一応聞いておく」


 少し気持ちが盛り上がっている私とは対照的に隆さんは冷静だったが、龍神のところに居た頃の記憶を話す。


 一つ一つ思い出しながら話したが、なぜか隆さんは大笑いしていた。


「え、どこが面白いの?」

「いや、だって男性側がどこを志乃に気にいったのかとか、二人が興味持っていく過程とかすっ飛ばして、単に男側が色仕掛けやってるみたいじゃん」

「確かにそうね……」

「ダメだ、そんなのは恋愛小説にはならんよ。っていうか三文小説?」


 隆さんは意外と辛辣だったが、言っている事は的を得ていて思わず納得してしまう。


 というか、龍神は本当に色仕掛けみたいな事をしていたんだろうと思い始めた。実際、あの男が自分を気にいる要素はない。まさに三文小説であった。


 そんな事を考えていると、あの時の記憶はどうでも良くなってしまった。


 確かに夢に出てきて、龍神の惑わされた事もあったが、あれはきっと恋愛ではなかったと確信する。


 自分に限りなく都合が良いだけで、別に私は龍神の与えるものもなかったし、与えられているものも表面的なものばかりだった。


 それに今は隆さんについて知りたかった。これが恋なのかはわからないけれど少なくとも龍神の所では感じる事はなかった気持ちだと気づく。


「隆さん、この小説読んでもいい?」


 私は彼の原稿用紙を胸に抱える。


「いいけど、漢字はちょっと難しいぞ」

「辞書ひいて頑張って読んでみるよ」

「そうか、勉強にもなるよな」

「ええ」


 そして二人でしばらく笑っていた。龍神の事は完全に忘れられそうだ。やっぱり夢か幻だったのだろう。


 今、目に前にある現実の方が私は大事だった。

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