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初恋編-3

 私が教会で保護されてから数日が経った。


 あれ以来龍神の夢も見ず、平穏に生活していた。初美姉ちゃんや太郎くんと一緒に家事や教会の奉仕活動を手伝い、牧師さんに耶蘇教の事を教えてもらったり、隆さんに漢字や聖書の事を習うようになった。


 数日とはいえ、端の持ち方も矯正され、食事の所作も綺麗になったと隆さんに褒められるようになった。


 いつもは厳しい人だから、ちょっと褒められるだけで余計に嬉しく感じていた。


 理由はわからないが、隆さんについてもっと知って見たいという気持ちも芽生えていた。そう思うと、心の奥底がむず痒いようなふわふわとした感覚に襲われる。龍神の家では決して感じた事の無い感情で、たぶん初めて感じるようなものだった。


 そうして土曜日になった。


 牧師さんは明日の礼拝準備、隆さんは仕事、初美姉ちゃんはハンスさんと東京に出かけていた。牧師さんに聞くと耶蘇教を信じる者は、毎週日曜日の朝に礼拝があり、初美姉ちゃんは土曜日に出かける事が多いそうだ。


 牧師館には、私と太郎くんだけが残される。私は廊下を磨いたり、花をいけたりしていたが、太郎くんが新聞を持ってきてくれた。


「志乃姉ちゃんは読む?」

「私は漢字はまだあんまり読めないけど、少しなら」

「そっか。僕は退屈になちゃったから、外で遊んでくるよ」


 太郎くんはそう言って出かけてしまった。新聞は私が退屈しないように持ってきてくれたようだ。


 私は一人、茶の間のちゃぶ台の前に座り、新聞を広げる。

 隆さんに字を教わっている最中とはいえ、まだ読めない字も多い。書斎から辞書を持ってきて、どうにか読めるレベルだ。しかし、少し前までは新聞も読める箇所が増え、やっぱり隆さんに教えて貰った甲斐があるようだ。


 新聞から理解出来た漢字やことわざを雑記帳に書きつけているだけでもちょっと楽しかった。


 新聞は世界大戦が終わるそうだと伝えていて、少しだけホッとする。


 ただ、西洋の疫病が日本でも流行りそうな予想もされ、その点が気がかりだ。人との距離をとり、マスクで顔を覆うと予防になると呼びかけられていた。


 地域にまつわる情報も見たくて、新聞をめくる。この教会があるのはわたがいた火因村から少し離れた江田町という。


 火因村と違って農村ではなく、そこそこ栄えている町だ。東京にも電車に乗れば行く事ができる。町の人も少しオシャレでハイカラな女学生や洋装の男性もたまに見る。火因村では見ない光景で、新聞の地域の話題も気になる。


 しかし、あまり楽しい話題は載っていなかった。むしろ、罪悪感が芽生えそうだ。


 絵里麻の記事が載っていた。絵里麻は、とある華族の男性に嫁いだそうだ。それは良いのだが重い病気にかかり、床に臥せっているのだという。西洋の疫病に感染した可能性もあるとも書かれていたが、原因は不明なのだと言う。


 龍神が呪いをかけたのは、本当だったのかも知れない。龍神の家の出来事は夢か幻だと思うが、こうして絵里麻が病気になっていると思うと、心が痛くなった。


 私の身の上を自分の事のように喜んだり、悲しんでくれる人に囲まれている今は、絵里麻の事が心配になってしまった。


 聖書はまだ全部読めていないが、隆さんに教えて貰ったところは「敵を愛しなさい」とか「人を赦しましょう」と言っていた。


 自分がそんな立派な事をできるとは思えないが、今の自分は神様に背いているように思えてならない。


 確かに絵里麻は私を傷つけたが、私だって誰かを傷つけているのかも知れない。


 隆さんは、本当に正しい方は神様しかいないと言っていたが、その通りだと思う。それなのに何で十字架にかけられてしまったのだろうか。なぜ傷だらけになってまで、こんな行動をとったのだろう。


 自分には決して出来ない行為だと思った。私はイエス様に比べるととても小さく、悪いもののように感じてしまう。単なる罪悪感ではなく、今まで感じた事の無いような胸の痛みも感じた。


 祈り方はまだよくわからないが、手を組んでみんながやっているように、祈ってみた。絵里麻がよくなりように。真野さんやこの教会のみんなが健康で仲良く暮らせるように。


 思えば願い事なんてそれぐらいだった。いくら綺麗な服を着てもいくら美味しい食事をとっても、いくら美しい男性に溺愛されても満たされない事はよく知っていた。そう思うと龍神の家での出来事は、勉強になったというか経験して良かったのかも知れない。


 気づくと泣いていた。


 何の涙からよくわからないが、なぜ神様なのに十字架にかけられてしまったのか何となくわかってしまった。たぶん私のような心の弱さを持った人間のせいで、あの当時自分がいたら、正しい行動はとれていなかったと思えてならない。


 ハッキリとはわからないが、自分の弱さや正しく無い部分が見えてきて、悲しくて仕方がない。


 ちょうどそこに隆さんが返帰ってきて、泣いている私を見てギョッとしていた。


「ちょ、志乃。おまえ、なんで泣いているんだ?」

「いえ、何でも無いんです。ただ、イエス様の事を思うと、私は本当にダメだと思って悲しいんです」


 咳き込みながらもどうにか言葉が言える。普段ハキハキ話せと注意されていたおかげで、こうして話す事が出来たのかも知れない。


「そうか。俺も信仰を持ってばかりの頃は、何て悪い事をしていたんだろうと思って、一日中泣いてたな」

「嘘、隆さんも?」

「ああ」


 隆さんは、上着のポケットからハンカチーフを取り出して、少し手荒に私の涙をふく。


「愛がなければ、自分を犠牲にする事はできないよな。きっとイエス様は、この世に人間が一人しか居なくても、その人のために命を捨てたと思う」

「う、ぅ」


 私はもう声にならないうめきしか出なかった。しばらく涙が止まるまで、隆さんは何も言わずにそばに居てくれた。


 泣いているのに、嫌な気分にはならなかった。むしろ、今は必要な涙だと思えてならない。


 不思議と心は、満たされて行くような、暖かさも感じていた。


 龍神の家に居た頃は、こんな感情は持てなかった。


 むしろ甘やかされるだけで、自分がどんどん悪いものになっていくようだった。あの場所に居た時は気づかなかったが、何の努力もいらない自堕落な日々に染まっていた。こうして思うと夢か幻だったとはいえ、龍神の家から逃げられて良かったと思う。


「志乃、大丈夫か?」

「ええ。なんか正気に戻ったと言うか、目が覚めたみたい」


 絵里麻の事は気になるが、今の気持ちは晴れた青空のようにすっきりとしていた。


 なぜか隆さんは大笑いし、私も釣られて笑ってしまった。ちょうど太郎くんも帰ってきて、笑っている私達を見てキョトンとしていた。

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