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初恋編-1

 夕食を食べ終わった後、隆さんから呼び出された。隆さんはもう洋装ではなく、紺色の着流しに着替えていた。やはり洗練されて見える洋装よりこちらの方が馴染みがある。


 呼び出されたのは、隆さんが使っている書斎だった。本棚にはギッシリと本が詰め込まれ、それでも入り切らず畳の上にも本が積まれている。小さな本の塔がいくつもあるように見えた。


 文机の前に座っている隆は、再び機嫌が悪そうで、私はちょっと緊張しながら隣に座る。


「志乃。お前はどうして『いただきます』と『ごちそうさま』が言えないんだ?」

「それは……」

「字を勉強する以前の問題だぞ。こんな子供でも出来る事が何故出来ないんだ? 今朝も注意しただろ」


 なぜかその言葉が言えなかった。料理は十分すぎるぐらい美味しいし、ちゃぶ台を囲むには賑やかでたのしいのに。


「龍神様を裏切ってしまう様な気がするから…」


 悪魔である龍神はとても怖い。でも優しくされていた記憶を思うと、何故か彼の言う通りにしなければならない気がする。こんな風に注意されているし、悪い事であるのは理解しているし、直したいと思うのに、喉に鍵が掛かったみたいに動けなくなってしまう。


「龍神か。太郎から事情を聞いているから、だいたいのことは知ってる。ただ、本当に神か? 人間の命を要求している神なんて悪魔だろ。その神は人の為に犠牲になって死ぬ事はできるのか? 人間を愛しているのか?」


 隆さんはもうあまり怒ってはいなかった。それよりも少し悲しそうに表情を歪めていた。


 遠くの方で太郎くんと初美姉ちゃんのはしゃぎ声が聞こえるが、この書斎には重苦しい沈黙が降りていた。


「わかったよ。『いただきます』と『ごちそうさま』は、言える時の言え。ただ、箸の持ち方は不味い。今から直せ」


 隆さんは呆れながらそんな提案をした。


「箸?」

「子供みたいに握って持つなよ。太郎だってちゃんと綺麗に箸を持ってるぞ」


 そういえば父や母と一緒に暮らしている時は、綺麗に箸を持っていた記憶があるが、すっかり持ち方を忘れてしまった。真野さんも私と似たような持ち方をしていたし、龍神ももちろん何も言わない。そういえば誰に注意もされない環境だった事に気づき青ざめる。


 隆さんは台所から箸と豆を持ってきた。


「だから、こう持つんだよ」


 隆さんは綺麗な箸の持ち方の見本を見せた。意外とほっそりとした綺麗な指だった。爪の形も綺麗だが、手の甲や指に産毛も少し生えていて、男性というか人間らしさも感じる。


「こ、こう?」


 私は見よう見真似で箸をもってみた。


「違う、違う。中指をこうやって」

「わかった、こう?」


 確か父に教えてもらった箸の持ち方も思い出し、同じように持ってみる事にした。


「おぉ、完璧だ」


 そう言って隆さんはニヤリと笑った。怖いばかりだと思っていたが、この笑顔はあまり怖くない。怖いと思うのも偏見だったのかも知れない。自分が、ちゃんとして居ないからわざわざ注意くれているのだ。


 嫌われるかも知れないし、こんな面倒臭い事を引き受けていると思うと、叱られたり注意されていても否定出来ない気持ちにもなる。むしろ、隆さんはとても親切な人に思えてならなかった。龍神だったら注意もせず全部肯定してくれると思うが、それで良いのかは私にはわからなくなってしまった。


「よし、いいぞ。そのまま豆を運ぶ練習もしよう」

「出来るかな……」

「そんな後ろ向きな事は言わんで良い。とりあえずやってみろ」


 私はいくつか豆を落としながらも何回か練習し、なんとか出来るようになった。失敗しても隆さんは辛抱強く練習に付き合ってくれた。


「太郎より飲み込み良いぞ。偉い、偉い。完璧だ」


 褒められると少しくすぐった気分になるが、この人は理不尽な事では決して怒らないと信頼する事ができた。


「色々厳しく言って悪かったよ」

「いえ、こちらこそ……。ありがとうございます」


 鈍臭く不器用な自分に付き合ってくれただけでも感謝しか無い。


「お前は素直な奴だな。うちの生徒は注意すると反抗して怒るやつばかりさ」


 そう言って隆さんは感心したように私を見た。その視線は親が子供を見るようなもので、暖かく感じた。


「誰のために叱ってるっていうんだよ。将来困るから、わざわざ注意しているのによ。ま、人間は自分の事は正しいと思う罪深い存在で、耳の痛い事なんて聞かないけどな」


 やはり注意したり、叱ったりする事は力がいるようだった。


「箸の持ち方だって大事だぞ。所作もな。姿勢ももっとしゃんとして、ハキハキ言いたい事は話せ」

「は、はい」


 その指摘は最もな事なので、私は頷く事しかできなかった。


 龍神には決して注意されなかった。ただ、甘やかされていただけ。それはやっぱり間違っていたのかも知れない。自分が心地よいだけで何も成長しない。


「人間って愚かで罪深いんだよ」


 隆さんは文机の上にある聖書を指差しながら呟いた。


「聖書にも書いてあるけれど、悪魔は天使の姿を装おう。きっと人間は見た目でしか判断出来ない性質を持っている事は、悪魔もよくわかっているんだろうな」


 隆さんの使う言葉はちょっと難しかったが、言いたい事はなんとなく伝わる。龍神も見た目はとても美しかった。絵から出てきたみたいだった。悪魔が見た目だけは良いというのは、本当かもしれない。


「まあ、現実的な話をすると、いくら中身が綺麗でも箸の持ち方一つで、育ちが悪いと判断する人間ばかりだ。面倒かも知れんが、気をつけた方がいい。志乃だって自分の所作が原因で親が悪く言われるのは嫌だろ?」

「わ、わかりました」

「もっとハキハキ話せ」

「はい」


 そう言うと、なぜか隆さんは大笑いしていた。まるで兄が妹の面倒を見ているような和やかな雰囲気が漂う。


 見かけは怖くて厳しそうな人だが、私はこの家でやっていけそうだと感じていた。同時に初美姉ちゃんや牧師さんの事もよく知りたいと思ったし、隆さんの事ももっとよく知りたいと思い始めていた。

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