教会編-3
初美姉ちゃんが医者を呼んでくれた。私自身はどこも悪くはないと思っていたが、川で倒れていたというし、念のために呼んでくれたそうだ。
「あの、お金は?」
と言っても私は今、一銭も持っていないが。
「お金はいいよ。実は、医者はハンスさんっていうのだけど私の婚約者なの」
初美姉ちゃんは、ちょっと恥ずかしそうに言う。
「それに教会は困っている人や弱い人を受け入れる所だとも思うの。イエス様だって弱い人や障害を持っている人の味方だった」
「イエス様?」
はじめてその名前を聞く。初美姉ちゃんの口調から、尊敬や敬愛といった感情が伝わってきた。
「私達が信じている神様よ。何も悪くないのに、悪い私の為に命を捨てて下さったの」
「え、悪い? 初美姉ちゃんは、どこも…」
悪い人には見えない。全く逆に見えるのだが。
「そう思う?」
「ええ」
「でも私は神様を知らない時は、全てを恨んで生きているような人間だったの。もちろん、弱い者に同情心なんてなくて。変えてくれたのは、神様だけね」
そう語る初美姉ちゃんは、やっぱり悪い人には見えず、ピンとこないというのが現状だった。
「あなたもいつかわかるわ。あとで牧師さんに教えてもらいましょうね」
「教えてくれるの?」
神様が本当にいるかはまだわからない。ただ、龍神よりこの教会という場所の方が信頼できる気がした。理由はわからないが、この家は全体的に素朴で庶民的な雰囲気で溢れているし、太郎くんの扱いを見る限りは酷い事はやって居ないように見えた。
龍神のように散々甘やかして崖から突き落とす可能性も考えたが、食事は質素だし、隆さんは厳しそうな人であるし、甘やかされる可能性は低そうだった。
そんな事を考えつつ、寝かされていた部屋に戻り、医者を待つ。
医者は初美姉ちゃんが言ったようにハンスという男の人だった。名前から想像がついてはいたが、西洋の男の人だった。鼻は高いし、目も大きい。背も高い。白衣が似合う30歳ぐらの男の人だった。日本語はペラペラでおかしなところは無い。
「初美に川で倒れていたって聞いたんですが、どこか具合の悪いところは無いですか?」
私は首を振る。
「でも念のために一応脈をみますね」
胸に聴診器を当てられたが、異常は無さそうだった。寝巻きを少しはだけさせた訳だが、あの龍神との初夜を一瞬思い出す。ただ、ハンスさんは医者の顔しかしていなかったので、すぐに忘れたが。
「まあ、異常はない様ですね。よかったです。でも今年の秋は、風邪が流行るかも知れませんね」
「そうですか。天気が良くないからですか」
「いや、それもありますけれど、ヨーロッパの方で厄介な疫病は流行っているとか。新聞読みませんでしたか?」
再び首をふる。
新聞は文字ばかりだと思うが、自分はろくに学校にも通えて居ないので読めない漢字も多い。
「新聞読めないんです」
「ああ、そうですね。まあ、この国の女性はそこまで教養をつける事は言われませんけどね」
「ええ」
ハンスさんに言いたい事は何となくわかる。
東京では西洋風の服を着た女性達が働いているとは聞くが、依然として女性は良妻賢母になるように言われる事が多い。女学校にせっかく入っても結婚する為に退学するものも多い事は耳に入ってきている。死んだ母も勉強よりは料理や裁縫を教えたがっていた。
「教養はあっても無駄にはなりません。日本人女性の教育がちゃんと出来てからキリスト教を布教すべきだと知り合いの宣教師が嘆いていましたよ。字も読めないと聖書も伝わりにくいですしね。女性にも勉強が必要だと思います」
そう言われてしまうと胸が抉られる思いがしてきた。自分の今の状況は、学ぶどころでは無い。生きる為にやっとの状態で、それ以上を望んで良いものかわからない。
「勉強したいですか?」
ハンスさんは優しく聞くが、逆に少し泣けてきてしまう。
「本当はミッションスクールに通う予定だったんです」
「ミッションスクール?」
「あ、すっかり忘れていたけどミッションスクールってこの耶蘇教と関係があるんですよね」
本当にすっかり忘れていた。思い出さない様にしていたのかも知れない。女学校は耶蘇教の関係者が建てたミッションスクールが多いと父から聞いてはいた。なんでも耶蘇教の人は女子教育にも熱心な者が多いと聞く。父もそんな所が素晴らしいと絶賛し、別に耶蘇教の信者でもないのにミッションスクールを勧められたんだった。思わぬ所に今の状況と関わる事を思い出し、私はちょっと苦笑してしまう。
「そうだったんですか」
ハンスさんは私の話をよく聞いていたが、なぜミッションスクールに行けなかったか等事情は聞いて来なかった。
「勉強だったら隆さんに教えてもらうと良いですね」
「隆さん?」
意外な人物の名前である。そういえば学校の先生として働いていると言っていた。
「ええ。ちょっと怖いですけれど、熱心なクリスチャンですし、根はとても真面目で誠実な人ですよ」
ハンスさんの言う事は理解できる様な気がした。確かに少し怖いが、いかにも嘘がつけない雰囲気は感じる。たぶん彼を怒らせているとしたら、自分が悪かったのだろう。
「あ、初美姉ちゃんとの結婚おめでとうございます」
「どうもありがとう。まあ、初美もキリストの花嫁ですから、教会で結婚式をあげます。よかったら、志乃さんも来てください」
「ええ。行きたいです。ってキリストの花嫁ってなんですか?」
キリストといえばさっき初美姉ちゃんから聞いた神様の名前だと思うが。
「それは、イエス・キリストを信じるもの全ての人の事を言います。教会について言う事もありますね。神様は、まるで花嫁のように信じるものを特別に愛しているんです」
「信じられない話…」
ハンスさんは少し目を輝かせて言っているが、私にはよくわからない。でも神社やお寺にいる神様は、ずっと上の方にいて人を花嫁のように思っている様にはとても見えない。参拝の仕方なども決まりで縛っているし、祟りが起きるかも知れない恐怖で支配している様にも感じる。龍神のように実は悪魔だった事は論外であるが。
「まあ、後で聖書の雅歌を読んで見てください。まるで神様からのラブレターみたいですし、後で牧師さんにも詳しく聞いて見るといいでしょう」
「はい」
私は素直に返事をしてまい、ハンスさんもつられて笑ってしまった。




