始まりは静かに
日の光がやや傾いた頃、一人の少年が、城の正門から肩を落として歩き出た。
「やっぱりダメか……」
騎士団入団試験に落ち続けて何度目だろう。目指し続けてきたその場所は、今も遥か遠くにある。真っ先にコロさんの顔が思い浮かんだ。10年前、行く当てがなかった俺を拾ってくれたパン屋の店長だ。傭兵上がりの鍛え上げられた体からは想像つかないほどの柔和な笑顔は、その頃からずっと変わらない。お前なら大丈夫だ、応援してるぜ、そう笑って送り出してくれた優しさが、今は痛い。
「俺には向いてなかったんだ。ごめん、店長、姉ちゃん」
初めは迷った城門からの帰り道も、すっかり慣れてしまった。でも、この感覚は何度味わっても慣れそうにない。
周りの時間が止まったような感覚。それでも家まで歩けてしまうのがまた悔しかった。
活気あふれる商人の呼び声や俺を呼びかける声が耳に入ってくるようになったのは、しばらく経ってからだ。
「――ディ! おーいベディ! 待ってくれ」
振り返ると、小太りの男とちょび髭を生やした男がこちらに走ってくる。あれほどしっくりくるコンビは1組しか知らない。
「ワイリさん、ショーさん。いやだなぁ、なんで来たんですかもう」
傷と汚れでとても銀色とは呼べない使い古された甲冑。騎士団第3部隊に所属するこの2人は、何度も試験に挑む俺を何かと気にかけてくれていた。
「ベディ」
「ベディ、そのな……」
二人は少し言いづらそうに俺を見つめた。
「すみません、ワイリさん、ショーさん。今度こそ、受かるって、言って……」
目の前が滲む。笑顔が保てないのが分かる。
「すみません……すみません……」
次から次に感情が湧き出てくる。二人は、黙って俺を抱きしめた。
◇
帰り道、日が沈んで暗くなった道を冷たい風が突き抜ける。二人に飯屋に連れていかれて、随分時間が経ってしまった。
早く帰らねば、コロさんとクロエにどやされてしまうだろう。
道を曲がり進むと、酒場や飲食店が建ち並ぶ通りに出る。そのまま少し進めば、家であるパン屋のクロワッサンと書かれた消灯した看板が見えてくる。
そこまで来ると、道の反対側で一人の男が入口を見ているのに気付いた。黒いローブを身にまとっていて顔は良く見えない。
「どうされましたか?」
声をかけると、男は焦った様子で、走り去っていった。そのとき一瞬だが、刃物が光って見えた。
「短剣?」
静かに後を追いかける。何故そんなことをしたのか自分でも分からない。だが、どうにも胸騒ぎがした。
細い路地に入り、曲がり角を曲がって3回目、男の姿を見失ってしまった。
あれは誰だったのか。
諦めようとしたとき、背中が凍り付くような感覚がした。間違いない、殺気だ。どうやら相手に隠す気はさらさらないらしい。
咄嗟に振り返ると、目の前に刃先が迫っている。
「――――――!!」
反応できなかったらどうなっていただろう。勢いよく尻もちをついた俺の前には、塗りつぶされそうな漆黒のローブに身を包んだ二人の男が立っていた。
「何者だ……」
そう口から出る声が震えているのが自分でも分かる。男たちは、俺の声などまるで聞こえていないかのように二人で話していた。
「誰だこいつは」
「知らん。ただの一般人みたいだな、でも見られたかも知れない、消そう」
そう言った男がこちらを見た。
「馬鹿な奴だ、ご愁傷様」
流れるような動作で短剣を構える男の手を、もう一方の男が制止した。
「何すんだ」
「待て、我々の存在が勘付かれるのはまずい。都を離れてから始末しろ」
言われた男は、一瞬不服そうな態度を見せた。
「はいはい、連れて行きますよ、心配性だなぁ」
連れ出して、消す?俺は、殺されるのだろうか。 まずい、何とか逃げなくちゃ、何とか。
心臓が締め付けられるように感じる。手足がひどく冷たい。
ふと、腰に刺さった剣が手にあたった。
逃げる? 違う。俺は、身を護る術を知っているはずだ。散々振ってきたじゃないか。
騎士だったらきっと臆することはないだろう。
腰の剣を確かに握りしめ、立ち上がった。
男は嗤った。
「おい! こいつ剣持ってるじゃねぇか。あまりに貧弱そうだからおもちゃかと思ったぜ。いいぜ、来いよ遊んでやる」
男が再び短剣を構えると、もう一方の男は、また制止しようとした。
「お前なぁ。さっさと離れるぞ、聞いてなかったのか?」
「大丈夫大丈夫、跡は残さないから。先戻っててよ」
言われた男は、少し考えた後、素早い動きでその場から消えた。
握りしめた剣を構える。思い出せ、まずは相手の動きを――
「――――!」
気付いた時には、刃先が鼻先を掠めていた。必死に剣を振る。響く金属音。
速すぎる、それに全く動きが読めない。
息をする暇もなく次の攻撃。
横殴りの雨のように飛んでくる切っ先をぎりぎりのところで防ぎ続けるが、相手の猛攻は止まらない。ほんの一瞬の攻防。いや、防戦一方か。瞬きするほど短い時間が、このときだけは永遠に感じられた。
突然、男の攻撃の手が止まる。しかし、一撃を返す余裕も判断力も、すでに残っていなかった。
「うーん、意外と反応は良かったが、やっぱつまんねぇわ」
刹那、先ほどの攻撃が嘘のように、神速の拳が顔に飛んできた。
◇
「ここは……」
目が覚めると、綺麗な半月が見えた。背中には草の感触。少し寒いのは夜の所為か、それとも俺が長い時間倒れていたのか。
飛び起きると、鼻に痛みが走った。隣を見ると、無造作に転がる俺の剣が、月光を鈍く反射している。急いで手に取り、辺りを見回す。ここは森と平原の境目か。とすると王都からはそこそこ離れているようだ。
そして、何故俺はまだ生きているのか。その答えは、周りに築き上げられた死体の山が物語っ
ていた。二人どころではない、真っ黒なローブを着た死体が10人、いや20人転がっていた。
臭い。吐きそうになる戦場の匂い。
むせ返るような血の匂いの中、状況を飲み込めない俺の前に、1つの影が森から出てきた。
「大丈夫か、少年」
「女の……人?」
黒いローブの胸元に刻まれた真っ赤な剣の刺繍が月光で輝いている。フードに差し込む月明りが、吸い込まれるような赤い瞳と綺麗な白銀の髪を照らす。その両手に握られた短剣からは、血が滴っていた。