009
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聞こえた瞬間、鳥肌が立った。
硬い音。悲鳴みたい。遠く、鐘が打ち鳴らされたんだ。
「お、こりゃ火事でっか?」
「それにしちゃ止むのが早い……嫌な感じだね……少し様子を見てくるよ」
「ワイも行きます。これでも白家軍の斥候、目はいいのやから」
お碗を取って口をつけた。ぬるい水が頬に跳ねた。あたし、震えている。何かひどいことが始まろうとしている……そんな気がしてならない。
「姫?」
ゼキア、あんたは今度もあたしのそばにいてくれるんだね。心強いよ。
……今度?
そうだ。この感覚は、三年前の、あの月夜のものじゃないか。
早足で戻ってきたケイジンの様子でも、わかる。やっぱりあの時の大人たちの顔をしている。日常が壊れて、恐ろしい何かが現れはじめているんだ。
「城下から黒煙が上がっとった。火事や。それやのに火消しの鐘が途切れ、もう鳴らされへん……つまりは町方を押し退ける連中がおるってことやで」
「まさか、紅家軍か!」
「東都で火事起こして裁かれない暴力、他にありまっか? せやから―――」
ケイジン? 真正面に来て、ひざまずいて、真っ直ぐに顔を向けてきて。
「―――姫様、下知を」
「おい、ケイジン」
「黙っといてや、守役。ワイは姫様の家族やあらへん。仲間や。白家の家来ってことや。紅家とやり合うのに勝手はせえへん。確かな命令が要るやろ?」
家来。命令。ケイジンが、あたしに、ナインベルの言葉を求めている。
「さ、何なりと。姫様の信じる正しさを、ワイへ示したってや」
今、一つの命が預けられた。熱いし、重い。お腹に力を入れていないと声も出せなくなりそう。唾をゴクリ。あたしはちゃんとやるよ。
「……はっけ、ナインベル・ホワイトガルムとして、ケイジンへめいじる」
まだわかっていないことばかりだけれど、確信していることもある。
「わたしをせおい、はしれ。だれかがないている、いのちのげんばへ」
生々しくないとダメなんだ、あたしは。遠いと乾いた数字に見えちゃう。
テロ、災害、事故、そして戦争……いっぱい数字を見てきたよ。それでわかる人もいるんだろうね。あたしはちっともわからなかった。だから行くんだ。現場へ。
「よっしゃ! 承知つかまつりや! 足の速さには自信あんねんで!」
「ま、待てケイジン! ウルスラ先生は……」
「僧院は動けへんところや!」
「ならば一声かけてから行くぞ!」
「あ、やっぱり一緒に行くんやね」
おおー、軽々と背負われちゃった。行商やっているくらいだからパワフルだ。
あ、ウルスラ婆ちゃん見っけ。焚火の用意をしていたんだ。他の僧侶っぽい人たちも椅子とか毛布とか、色々と運んできている。
「あんたたち、どこへ行こうってんだい!」
「主命遂行中につき回答は差し控えまっせ!」
「あの煙には不埒さが臭う!」
「その子を連れてくのかい!?」
「ちがう。わたしが、みなをつれていく。ウルスラはみていて」
何ができるかはわからない。何もできないかもしれない。でも行くんだ。
「チッ、必ずまた顔を出すんだよ!」
「了解した!」
「ほな、走るで! 守役、遅れたりこけたりせんとってな!」
ちょ、うわ、ケイジンってば本当に足速い! でもあんまり揺れないし、あたしを支えていて腕振らないしで……すんごく忍者っぽい!
境内を駆け抜けて、石段を飛び抜けて、煙る街へ。夜が迫るよりも早く、街へ。
「あちゃあ……煙上がっとるの、綿灯し横町の辺りや。ご贔屓の店が多いねん」
え、そこって。
「裏通りに私たちの長屋がある」
「偶然……にしちゃ、おっとろしいなあ」
「急ごう」
「もしかすれば戦場や。呼吸は乱さへんよう」
風に乗って焼け焦げた臭い。通りに人が出ている。どの顔も不安そう。息を潜めた話し声。親にしがみつく子どもと、それを抱きとめる手の力み。
誰も少しも笑えない。日常がほころんでしまったから。
「見えた! あれは占言旗!? あの連中は……」
シーツに記号を書きなぐったような旗が、熱風に吹かれてバタバタとうるさい。
槍、斧、剣、鎌、鍬、棒……危ないものばかり。顔を隠す布はバラバラなのに、腕や頭に巻きつけた布だけは紅の一色きりだ。拳を上げ、獣のように興奮して、ギャアギャアと何かを叫んで……笑っているの?
「参徒衆や! 騒乱罪だの強盗罪だので捕まったアホなやつらが、紅家のお墨付きをもろて好き放題やりよんねん!」
「賊徒か、つまりは」
「地方じゃそう呼ばれとる。だけど、まさか、東都でやらかしよるとは……」
あたし、こういうの見たことがある。海外のニュースだ。何かを許せないってデモをして、何かを切っ掛けに略奪が始まる。
嫌いだったな。わかるわからないじゃなく、野蛮ってだけで不愉快だから。
「やめっ、やめてくれえ!」
叫んで暴徒へすがりついたの、うちの大家さんだ。煤けちゃって。
「あんたたち、わかってんのかい!? ここいらの地主は、御献上の塩を取り扱いなさる大店の……ぎゃあ!」
蹴飛ばされた! ひどい!
「その大店様が、じょーのー金を渋ったんだよ……紅家軍を怒らせやがってよー」
蹴飛ばした男、見覚えがある。
「なぜだ! どうしてお前が紅巾を腕に巻いてる……答えろ! バップ!」
バップ。それがあんたの名前。憶えたけれど。
あの子たちのお兄さんでお父さんのあんたが、こんなに怖い夜に、あの子たちのそばを離れて、ひどい顔で剣なんて持っちゃって……何をやっているの??
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