004 ゼキア
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姫の体温が手の内に涼しい。焦るなと諭されてるかのようだ。
慌てずに走ろう。すぐにも東都を脱出できるよう荷造りをしなければ。
「おや、ゼキアちゃん。どうかしたのかね?」
しまった、大家だ。こういう時に限って。
「……妹が、眠そうで」
「え、ゼイゼイ息しているけど……まあ無理もないか」
姫を言い訳に使うなど恥ずべきことだが。
「君くらいまで育てば、ものの役には立つがね。この頃は野良犬のようなガキが多くてウンザリするよ……ま、それはさておき、サムくんはまだ商いかね? 彼はいい男さ。姪っ子を引き取り育てようなんて、まず、なかなかできることじゃない」
親を亡くした子を親戚が養うという、ごくありふれた作り話だ。怪しまれやしないが、どうにも困ったな。この人は話が長い。
「実際のところ、彼には誰ぞ恋のお相手はいるのかい? 見合いの当てはいくらもあるんだ。実はさる大店からも打診されていてねえ……まとまればたっぷりと謝礼も出ようってもんだが、君たちにとってもいい話だと思うんだよ。この縁談は」
いい話、か。
姫が、白家の令嬢であることを捨て、たとえば私の妹として生きる道。ベルという名の穏やかな暮らし。平凡な幸せ。
全てを忘れ、忘れられて、それが叶うならば。
手を、姫が強く握ってくる。唇を結び首を横に振る、その意思は明らかだ。姫の守役である私が揺らぐなどあってはならない。
「……そろそろ失礼する」
「いやいや待ちなさいよ。ゼキアちゃん、君からもサムくんに話をだね」
しつこい。偽装を疑わせないための世渡りが、こうも災いするのか。
「こんにちは、大家さん。いつも気に掛けていただきありがとうございます」
イクサム! 切り抜けてきたか!
「やあ、いいところに。今話していたところなんだが」
「聞こえましたが、遠慮します。オレは妻帯しません」
「おいおい、これはいいことずくめの話だよ? 姪っ子のことなら先方も承知していなさる。まあ、婿入りだから一緒には暮らせないだろうさ。それでも手習いくらいはさせてもらえるだろうし、大店の下働きなら食いっぱぐれの心配もない」
「……姉夫婦の墓前で誓ったことですから」
「誓い? 何だい、そんな食えもしないもの!」
ああ、いけないな。イクサムの目つきが変わった。
大家は知る由もないが、本当のところはお館様と奥方様への誓いだ。そして武人の誓いとは秘めたる激情……軽んじれば血を見る。そら、殺気が漏れはじめたぞ。
「口を閉じろ―――」
片目を細めて手を差し伸ばす仕草。イクサムが必殺の間合いを測る際の、手癖。
「―――そのまま、しばらく開くな」
息も絶え絶えじゃないか。可哀想だが好機だ。さっさと部屋へ入ってしまおう。
さあ、姫……姫?
瞳が潤んでいる。頬が赤い。前方を凝視して小刻みに震える。これは。
「……ゼキア、どうしました」
「すぐに寝具を用意してくれ」
大丈夫だ。部屋は狭いが清潔に整えてある。水も毎朝新しく汲み直すし、換気にも余念がない。こういう時のためにこそだ。
そっと横たえ、よく絞った手拭いで両目を覆う……これでよし。
「のぼせただけだ。夕暮れまでには回復すると思う」
イクサムめ、ずいぶんと不安そうに。さっきの迫力が嘘のようだな。
「増えましたね、こういう発作が」
「ああ。放心する方の発作なら、まだしもな」
姫は何かが普通ではない。神懸かりの子であると奥方様はおっしゃったが。
生まれた時、呼吸がなかったという。大人の泣き声の中でいつの間にか目を覚まして、不思議そうに天井を見つめ、何かをしゃべったとか。祝詞のような何かを。
あの月夜の都落ちにおいても、一切泣くことがなかった。今にいたるまでずっとそうだ。超然と世界を眺めやる姿は、なるほど、大いなる達観や遥かなる境地とでも言うべきものを感じさせるが。
「……かくも繊細でいらっしゃるというのに、どいつもこいつも」
私が言ったか? いや、イクサムか。まったくその通りだよ。
白家嫡流の血筋は姫を残して既に断たれた。傍流もシラミ潰しの勢いだ。紅家の執拗さは凄まじい。それに恐れおののく者たち……白家残党もまた、姫を求める。この情勢下ではどちらに見つかっても同じことだ。
この三年、何度危険があったか知れない。いつかは誰かに発見されるだろう。
姫は、ナインベル・ホワイトガルムであることをやめられないのだ。
「荷造りだけでもしておくか?」
「ええ、今日の内に北山の僧院へ匿ってもらいましょう」
「白家が建立した僧院だろう、あそこは」
紅家の追求に対しては心強いが、しかし。
「懸念については心配無用。話のわかる尼僧がいます」
「そうは言っても……」
「すぐに手紙をしたためますから、ウルスラという尼僧へ渡してください」
「む? イクサムは行かないのか?」
「オレは、日暮れまでに統領府へ出頭しなければなりません」
「何だと!?」
荷袋を取り落としてしまった。どういうことだ、イクサム!
「その約束で解放されました。紅家令嬢あなどりがたしです。流れの兵法者という態でごまかすつもりですが、興の醒めるまでは拘束されるかもしれません」
「それは……」
統領府は東都の要であり、紅家の支配するところのものだ。そこへ行くなど。
「囮になるつもりか、イクサム」
「場合によっては。もしもの時は四つ辻の茶屋で食事を。白家軍の人間が接触してくる手筈になっています」
「白家軍! お前、まさか、白家残党と通じてたのか!?」
「オレは元旗本。良くも悪くも顔見知りが多いのです。隠れるよりも同志を増やした方がいい……尼僧にしろ手筈の男にしろ、姫の幸せを考えられる者たちですよ」
遺言のように言うな。私を、守役として信頼してくれる目だけでなく、子どもを慈しむような目でまで見るな。私だって、姫のために働けるのだぞ。
「あの日、あの夜、誰よりも姫様を護ったのは君です。任せましたよ、ゼキア」
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