037 ディストロ
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
何だ、この寝苦しさは。
鼓動が早い。汗がねばつく。吐き気すらする。戦場以外によく生きる場所も知らぬ俺が、まさか、緊張しているわけでもあるまいに。
まだ夜か。幕舎の外にも風がない。
「ディストロ閣下、何かありましたでしょうか」
「無用」
歩哨を立てるのも虚しい、退屈な戦だ。
さっさと片付けよう。東都を発ったという援兵もじきに到着する。統領代行は乱雑に兵を集めたようだが、数さえそろえば十分だ。東都統領を待つまでもない。
敵に動きなどないというのに……なぜ胸騒ぎがする。
む、あれは―――遠く、灯火の列だと?
バカめ。無益な強行軍をさせたものだ。到着するまでのことしか考えていない。文官のやりそうなことだが、近頃はそういう男が軍でも出世をする。そして乱世の残り火を念入りに潰していく。
無様で窮屈……心身を腐らせるような、この取りつくろい。
強敵たるかつての白家軍はなく、俺を繰る雷国無双もまたなし……『閃』の隊だとて烈騎隊の鋭利と比べれば見劣りするものでしかなかった。
見るべきものがあったとすれば、あの幼姫。
ナインベル・ホワイトガルム。
見てくれとしては母親似だろうが……どうしてだろうな? 俺を射抜くような眼差しと指先は大気を歪めるかのようで……シクスガン閣下を彷彿としたぞ。
煙る土埃。地の振動。紅の軍旗。
この、肌の泡立つような、戦慄。
おかしい。やはりおかしい。夜間行軍でありながら、なぜ隊列を整えた。なぜ騎馬を横列に展開させた。これみよがしなまでに旗を掲げて。
中央が前へ……あれではまるで……鋒矢の陣形。
「敵襲だ! 鉦を打ち鳴らせ!」
既にして戦場。だが甲冑を着る暇はない。
「全軍、一撃に備えよ! しかるのち、中隊ごとに応戦!」
槍に馬。鋭さと速さだ。俺の俺たる力でしのぐ。夜襲であるからには混乱を嫌って駆け去るはず。その背後を衝いてやる。
「裏切りだあ! 白家への寝返りが出たぞお!」
な、に?
「と、東都統領軍だあ! 粛清だあ! 粛清されるぞお!」
「うわあ! 『黒狼』閣下がご乱心! 誰か止めろお!」
「敵は紅家軍に化けているう! 隣のやつに気をつけろお!」
こ、これは……!
兵が交じってしまって、見分けがつかん。もはや隊も何もない。火まで放ってまわるだと? 敵も味方もあったものではない。いや、襲ってきた者たちまで混乱していないか? どういうことだ……乱戦よりもなお悪い……尋常の戦ではない!
俺に付き従う黒騎は……百騎余り。半数は俺と同じく衣服のままか。生き残った暁には甲冑を着て寝ることを隊訓とせねば。
……生き残る、だと?
命の危険を感じているのか、俺は。戦場の風が頬にひりつく。そうだ、この冷たく渇いた痛みこそ死の気配。ゆえに今、俺は生きている。
「徒歩は無視しろ」
命じて騎馬に当たる。明確な抵抗。つまりは戦意。不明敵の主力は騎馬だ。少なくとも命令系統はそこに集中している。指揮官はどこだ。
あそこか。伝令らしき騎馬の逃げた先。最も整然と隊伍を組んだ一団。
今更に、旗を掲げた?
あれは。
山を巻き毒を吐く幻獣の意匠……地を荒らす不吉な化物を己の象徴とする無道と無頼……まさか。夜闇にも見間違えようなく月が旗を照らす。死んだはずだ。シクスガン閣下へ牙を剥き、捨てられ、惨めに終わっているはず。
―――殺気。
白襷を先頭にして百騎。あの男か。回避。間に合わない。一撃で十数騎と吹き飛ばされた。しかも喰らいつかれた。あの旗への進路を断たれた。速い。後ろを取られた。鋭い。二隊に分かれる隙もない。
武装が不十分だ。まともに当たれば無駄に損耗する。やれなくはないが。
どうする。いや、俺はなぜ逡巡している。
旗だ。幻獣の旗が俺を見ている。
「……退くぞ」
大敗だな。
さして討たれてはいないだろうし、逃げ散った数も大したことはなかろうが、兵を掌握できるかどうかは怪しい。
夜襲であり急襲。乱戦であり混戦。一方的な攻撃であるばかりか、性質の悪すぎる同士討ちを演じさせられもした。一つ一つでも忌まわしいそれらが、おぞましいまでに混ぜ合わさり、停滞の陣営へ叩きつけられたのだ。
いっそ非現実的とすら思える、悪夢の戦場。
そこに、あの旗がひるがえる。
天下に轟く雷名と畏怖すべき鬼謀軍略……まさに雷国無双ではないか。閣下を敵に回してかつてのように戦えるとでも? あるいは本当に化物なのか? 死してもなお甦り、化物中の化物に再び牙剥こうというのか?
愉快だな。恐ろしくて、愉快だ。
何にせよ無策であろうはずはない。退き鉦を割れるほどに打ったとて、どれほどの兵が退くかもわからない。
ああ……敗けた。俺は負かされた。
東都へは戻れない。かかる難敵が来た場所だ。どんな罠が仕掛けられていても不思議ではない。西へ行けば敗残の道程となる。皇都まで帰ることになりかねない。
東だ。
東都統領と合流することでのみ、再戦の機会が訪れる。
それだとて容易ならざる決戦となる。この敵は圏北連合軍と合流するだろうし、辺境伯領軍もまた戦機を逃すまい。東都へまで退くかどうかは難しい判断だ。一戦もせずでは勢いに決定的な差が出る。東都に踏み止まれないかもしれない。
危機だな。東都軍団はかつてないほどの危機に晒されている。
だからか……それとも身を鎧わずに駆けているからか。夜が明るいではないか。風が涼やかに肺腑を洗っていく。槍も軽やかだ。
雷国無双よ、今度は敵か。
これほどの変事をシクスガン閣下が言及しなかったのは、なぜかな。取るに足らないからだろうか。それともあるいは……いや、もしかすると……。
「ククク……ハハハ!」
ああ、雷国無双! 雷国無双!
俺はお前を殺すぞ! さもなくば、お前が俺を殺すのだ!
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




