第二話 チェリーズ・ホット
私の愛するお父様
大好きなお父様
指輪を買いに行かせて下さい
ポルタ・ロッサの街へ
彼を愛しているの
だめならアルノ川へ行って
ヴェッキオ橋から身を投げます
ああ、神様!
胸が張り裂けてしまいそう
お父様、どうか許して
大好きなお父様
玄関の扉を開けると、どこかで聞いた事のある、柔らかい旋律が響いていた。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
いくつになっても少女のように若々しい母、江利子が台所から顔をのぞかせた。
「ただいま……なに、この歌?」
「隆志がねえ。何かあったみたい」
リビングのソファに通学用の鞄を置きながら、瑠璃子は眉をひそめた。
現在大学生の、七歳年上の兄は、母から繊細な美貌を受け継いでいる。色白の肌に、柔らかそうな栗色の髪。時に不思議な緑に染まる、神秘的なスティール・グレーの瞳。中学の友人たちの間では、ひそかに『王子』と呼ばれている。性格は意外と砕けていると言うか、さばさばしている所があって、物腰が柔らかい所と相まって、上品な好青年と見られている。妹ながら自慢の兄だ。
ただ少し、ロマンチストすぎるきらいがあるが。
「失恋でもしたの?」
「うーん、どうなのかしら。タカちゃんの場合、自分以外の人の失恋でも落ち込むから」
「で、今何してるの」
「おやつ作ってるわ」
重症だ。と瑠璃子は思った。落ち込むと兄は、お菓子を作り出す。滅多やたらに美味しいので文句はないのだが、どよんとした顔をしながら台所を占領しているのを考えると、何となく鬱陶しい。
「榊原の新作、出たんだけど……見せない方が良い?」
「あら、あっちゃん、また隆志を主人公にして何か書いたの?」
同人誌活動をしている親友、榊原敦子は、兄をネタにしてよく変な話を書いている。真っ白な薔薇が咲き乱れる庭園で、ひたすら紅茶を飲んでいるだけの話とか、いつでもどこでも月光が差し込む荒れた城の中で、延々とさまよっている話とか。繊細に見えるが豪胆な母には受けるらしく、いつもげらげら笑いながら読んでいる。
だが兄にはかなり衝撃だったらしい。以前、部屋に持ち帰るのを忘れ、冊子を置きっぱなしにしてしまった事があった。何気なく読んでしまった隆志はその後、しくしく泣きながら部屋にこもってしまった。榊原の書くものは耽美系ではあるが、それほどエロい描写はない。読者から、もっと激しいのを書けと言われるほどだ。だと言うのに、兄の反応は大げさだろうと瑠璃子は思った。あの時はかなり鬱陶しかった。
私の愛するお父様
大好きなお父様
指輪を買いに行かせて下さい
ポルタ・ロッサの街へ……
「しかもリピートしてるの、この歌」
「ちょっとねえ。浮上に時間がかかりそうよ。あ、おやつはチェリーズ・ホットらしいから」
「え? 今の時期にさくらんぼ?」
チェリーズ・ホットは、さくらんぼをフレンチトーストで挟んだようなお菓子だ。まだ桜が蕾状態なのに、どこから手に入れたのだろう。
「あちらの関係の方からの贈り物ですって」
「……あー。タカちゃん、また向こうに迷い込んでたんだ」
瑠璃子の祖母は妖精だった。会った事がないので良くわからないのだが。瑠璃子自身は人間の血が強かったらしく、そういう事は一切なかったが、母と兄は良く、人間以外の者の引き起こす騒動に巻き込まれていた。ことに兄は、能力が不安定な時期が長かったらしく、しょっちゅう行方不明になっていた。二、三日したら変な土産を手に戻ってくるので、母も瑠璃子も心配してはいないのだが。
ただ離婚した父親は、そうも言っていられなかったらしい。彼は隆志が消えるたびに大騒ぎして、帰ってくるまで憔悴していたそうだ。相当に不安だったようだ。それはそうだろう。七歳ぐらいの隆志ときたら、まさに天使の愛らしさだった。アルバムを見るだけで瑠璃子はきゃーきゃー言いたくなる。だと言うのに彼は、三日に一度は消息不明になっていた。その辺のコンビニに行くような気軽さで、妖精の世界に迷い込んでいたのだ。右に曲がる道を間違えて左に曲がった途端、もう向こうに行っていたりしたらしいので、どうにも安定しない、困った状態だったのだろう。
それも年齢が上がり、中学、高校に進むにつれて、頻度は下がったが。
それでも今でも父親からは、隆志が行方不明になっていないかと、心配する電話やメールが時折入る。
「タカちゃん、やたら好かれるみたいだしね」
瑠璃子は妖精を目撃した事はないが、母や兄からいろいろと話を聞いていた。だからそうした存在がいるという事に対して、疑問を持った事はない。
「おばあちゃんの血が、かなり濃く出ちゃったみたいだから。なんだかねえ、妖精の目からすると、タカちゃんってすっごい美人に見えるみたい」
「綺麗は綺麗だと思うけど」
「外見じゃなくて、中身がね。あっちゃんの本じゃないけど、妖精の男の人にプロポーズされた事があったみたいよ。あんまり話さないけど」
「えっ。それ榊原に言ったら、狂喜乱舞して新作書くよ。妖精の男の人ってどんな感じ? 騎士タイプが良いなあ。お兄ちゃんが王子さまだし! かしづく感じで!」
「どうなのかしら……乱暴な感じの人みたいだったけど。あ、でも子どもの頃に捕まった人は、一見穏やかな王子さまタイプだったって」
「捕まった?」
母は肩をすくめた。
「もう時効だと思うから良いかしら。七歳の頃、十日ぐらい戻らなかった事があったの。その間あの子、捕まってたんですって。向こうで。その時の事は、今でも話したがらないわ」
瑠璃子は眉をひそめた。
「え、でも妖精でしょ。そんなひどい事するはず……まさか、虐待とかされたの?」
「向こうはそうは思わなかったみたいだけれど、常識が私たちとは違うから。彼らにとっては好意でも、人間には苦しみに思える事はあるかもしれないわ。隆志にはつらかったみたい。それに……」
母は、ふうと息をついた。
「あの子、ちょっと繊細すぎる所があるのよねえ」
甘い香りが漂ってくる。
彼を愛しているの
だめならアルノ川へ行って
ヴェッキオ橋から身を投げます
女性歌手の、情感たっぷりの歌声が響く。瑠璃子はそっとささやいた。
「やっぱり失恋かな」
「可愛い妖精の女の子に?」
「案外、カッコイイ男の子……」
「どうかしら。それならそれでかまわないけど」
かまわないのか。
母の発言にさすがに瑠璃子もツッコミを入れそうになった。
「あら、だって。どうしたって成就しようがないもの、相手が妖精じゃ。失恋するぐらいなら安心よ」
だったら、何だったら安心じゃないんですか。思わず尋ねたくなったが、怖い答がかえってきそうでやめた。
「ノーラおばあちゃんも、隆志には子どもを作って欲しいって言ってるから、最低一度は人間の女の子と結婚してほしいのよね」
「最低一度……? 離婚するの前提の話なの、お母さん?」
「だってあの子についていける女の子って、相当タフじゃないと。あの子をこっち側につなぎ止めるぐらい、しっかりした子じゃないと負けちゃうわ。向こうにはライバルが大勢いるのよ? しかも半分以上は男性らしいし」
「……ええっと……」
向こうに行くたびの兄の貞操は、大丈夫なのだろうか。
ああ、神様!
胸が張り裂けてしまいそう
お父様、どうか許して
大好きなお父様……
不意に音楽が途切れた。あれっと思うと、兄がリビングにある古びたオーディオのスイッチを切っていた。
「黙って聞いてると好き勝手……」
眉間に皺が寄っている。それでも綺麗な顔をしていて、瑠璃子はちょっと、いいなあ、と思ってしまった。
「あらあら。隆志ったら、どの辺から聞いてたの」
にこやかに母が言う。母より少し硬質な、兄のスティール・グレーの瞳がきらっと光った。
「ばあちゃんが俺に、子ども作って欲しがっているの辺り」
「あら、それじゃ肝心な所は聞いていないのね。瑠璃がね、心配してたのよ。隆志が失恋でもしたんじゃないかって」
兄の目がこちらを向く。瑠璃子はちょっと肩をすくめた。
「だって、これ恋の歌でしょ。タカちゃん、落ち込むとお菓子作り出すし。失恋かなあって思ったの」
「失恋じゃない」
ぼそっと言うと、兄は台所に引っ込んだ。言葉が少なくなっているのを見て、母が眉をひそめた。
「あらやだ。ちょっと深刻だわ」
「え、そうなの?」
「自分以外の人の問題なら、ここで話してるわよ。瑠璃。つついちゃ駄目よ」
瑠璃子はうなずいた。一体、何があったのだろう。
戻ってきた兄は、甘い香りのするチェリーズ・ホットを巨大な皿に山盛りにしていた。
「うわー……カロリー高そう……でも美味しそう……」
思わず瑠璃子がそう言うと、隆志はちらと微笑んだ。
「美味しいはずだ。向こうでなった実だから」
「クリーム山盛り……さくらんぼがこぼれてる。こんなにたくさんあるんなら、ジャムにしても良かったんじゃない?」
「とっとと使い切ってしまいたかったんだよ」
ぶっきらぼうに言う兄に、しまった、これも地雷だったかと瑠璃子は身をすくめた。隆志はそんな瑠璃子を見て、息をついた。
「大した事じゃないから」
「そ、そうなの?」
「多分。俺に関して言えば、失恋かもしれないけど。でも大した事ないから」
瑠璃子は母と、視線を交わしあった。何を言っても地雷を踏む事になりそうだ。ここは黙って食べよう。
二人して、ナイフとフォークでつつき始める。隆志がアッサムの葉でお茶を入れてくれた。相変わらず、兄の作るお菓子は美味しい。入れてくれる紅茶も美味しい。瑠璃子は喫茶店でお茶ができなくなりそうだと思った。多分どこの店に入っても、兄のお菓子やお茶と比べてしまうだろう。へたな店では不味いと感じてしまうに違いない。友だちとのおしゃべりや、ちょっとした付き合いに、支障が出るかもしれない。中学生のお小遣いで、味のしっかりした店に入れるはずもないし。幸せなんだか不幸せなんだか。
ぱくりと一口。酸味と甘さが絶妙だ。へらっと笑顔になってしまった。幸せに決まってるじゃない、あたしったら!
体重計に乗るのがちょっと怖いが、それはそれ!
「お兄ちゃん、さっきの歌……」
「『私のお父様』?」
「お父さんの歌なの?」
「……いや。恋人との仲を反対された娘が、結婚を許してくれないのなら川に身投げするって、父親に訴える歌。柔らかくて優しい旋律だれど、実は激しい歌だよ」
「そう」
「向こうでそれ、歌った人がいたんだ」
母がちょっと驚いた顔になった。
「あっちでは向かない歌じゃない?」
「時間の牢獄にいる人にとっては、厭味の一つとして歌いたくなるのじゃないかな」
「あなた以外にもまだいたの?」
母の顔が険しくなる。隆志はうなずき、小さく息をついた。
「あいつには、人間の魂は、綺麗な宝石みたいに見えるらしい。集めて飾るのが楽しいんだろう」
「『あいつ』……?」
瑠璃子が首をかしげるが、隆志も母も、その事については何も言わなかった。隆志は続けた。
「彼女は百年ぐらい前に死んでいた人だった。今は解放されたから、天国のどこかにいると思う。最後に歌ったのがあれだったんだ。『私のお父様』」
「隆志。その事、お母さんには言ったの?」
「ばあちゃんは、……他の妖精のする事に口出しはできないって。知ってたみたいだ」
「そう」
二人は黙ってしまった。瑠璃子は少し、疎外感を感じた。
「妖精の人が、悪い事をしたの?」
尋ねると、兄はこちらを見て微笑んだ。
「人の魂を閉じ込めていたんだよ。本人には内緒でね。彼女は綺麗な部屋に住んで、毎日歌を歌って暮らしていた……ただ人間は、全く何も変わらない環境にいると、つらくなる。そうだろう?」
瑠璃子は考えた。毎日が同じ事の繰り返し。何一つ変わる事のない日々が、延々と続く。何年も、何十年も、……百年も。
それは、つらい。
「でも妖精には、それがわからないんだよ。彼らは、変わらない事で生きている存在だからね。人間の方もね。納得しているのなら良いんだろうが……彼女の場合はそうではなかったし」
「その人……歌手だったの?」
「うん。無名で、若くして死んだから、歌声も残っていないんだ。でも最後に歌ったあの歌が、あんまりすごくてね。似たような声の人を探してみたけれど」
ふと、兄は遠いまなざしになった。
「あの声は、二度と聞けない」
「今頃は、天使たちの前でリサイタルを開いているわよ」
母が言う。兄はちょっと笑った。
「そうだね。それなら彼女も幸せか」
「このさくらんぼは、その妖精からなの?」
母が尋ねる。兄の表情が微妙に歪んだ。
「あー、俺が怒りまくったから。みんなびびってた」
そんなに怒ったのか。
無理もない、と瑠璃子は思った。百年も閉じ込められていた女の人。繊細な容貌をしてはいるが、男の子な気質を持つ兄なのだ。そりゃ怒る。怒らないなら、兄ではない。
そういう所、兄はすごいのだ。おかしい事はとことんおかしいと言うし、怒るべき時には本気で怒る。相手が大人であろうが、子どもであろうがそうする。妖精にも、同じ態度で怒ったのだろう。
なあなあで済ませがちな人の中で、兄の在りようは美しい。そう思う。生き方は、不器用かもしれないが。とても綺麗で、それでいてとても自然で。特別だ。
……びびらせた妖精に貢がせるあたり、別な意味でもすごいが。
「ね、CDかけてよ。ちゃんと聞いてみたくなった」
なぐさめたくて瑠璃子がそう言うと、兄は笑った。
「瑠璃にクラシック、わかるのか?」
「わかるもん。かけてよ」
ぷっとふくれて言うと、兄はCDをかけてくれた。女性歌手の歌声が、ゆるやかにリビングに満ちた。
私の愛するお父様
大好きなお父様
指輪を買いに行かせて下さい
ポルタ・ロッサの街へ
彼を愛しているの
だめならアルノ川へ行って
ヴェッキオ橋から身を投げます
聞いてみたかったな、と瑠璃子は思った。妖精の国に百年囚われていたお姫さま。その彼女が最後に歌った歌。どんな声だったのだろう。
それを助け出した兄は、王子さまじゃなくて騎士だったんだ。彼女にとってはきっと、そうだっただろう。
ああ、神様!
胸が張り裂けてしまいそう
お父様、どうか許して
大好きなお父様……
ちょっと視線を向けると、兄の目尻に涙がたまっていた。瑠璃子は見ないふりをした。これはやはり、失恋だろう。変則的ではあるけれど。
さめてしまった紅茶を飲んだ。
「タカちゃん、食べてしまおうよ、これ。綺麗に片づけちゃおう」
声をかけると、ぼんやりしていた兄が、こちらを向いた。瑠璃子の示す皿の上のチェリーズ・ホットを見て、目をしばたかせる。
「全部食べて、終わりにしよ?」
「……そうだな」
笑って兄は、自分の分のフォークを取りに行った。母が微笑み、瑠璃子は良い子ね、とささやいた。
「私のお父様」。「私のいとしいお父様」、とも。
プッチーニのオペラ、「ジャンニ・スキッキ」のアリアです。
チェリーズ・ホットは、砂糖を加え、フライパンで火を通したさくらんぼをフレンチトーストではさみ、クリームをかけたもの。多分、かなり甘い。隆志は少し、酸味を強くしていると思われます。