第7章
野梨子の生い立ち
私の教師生活もはや2ヶ月が過ぎようとしていた。
時は5月末、山々は新緑の季節を向かえ、緑がむせ返るほどだった。
野梨子はますます私に露骨な好意を示していたし、山下先生も「先生、野梨はね、良い子なんだけど、凄いおませだから気をつけてくださいよ」何て忠告してくれていたのではあった。
私は独身の気がるさから時々寄宿舎にも泊まったし、そんな時野梨子に限らず生徒たちは皆、色々話しかけてきてくれたのだった。
哲学者は「先生僕はクリスチャンなんですよ」といって聖書のことを話してくれたし、詩人は自作の詩をそっと私に見せてくれた。博士は相変わらず、大人びた口調で少し、斜に構えて辛口の世相評論を私にしてくれた。生徒会長(もちろんあだ名)の渡部さんはいつもやさしく、野梨子のよきお姉さんであり続けた。2人はいつも一緒でこそこそ話してそっと見交わしてはくすっと笑ったりしていたっけ。
そして孤独を愛する、須郷さんはいつも隅で本を読んだり恥ずかしそうにしていたっけ。
ああ、できればあのときに戻ってみたい。35年前のあのときに、
私の青春、それは遠い思い出のかなたに今でもこうして生きてはいるが、
しかし、すべては失われたしまったのだ。
あの、恥ずかしそうにしていた須郷さんは風の頼りに聞くとその後若くしてなくなったという。
そしてわたしの野梨子も今はもう何処にもいないのだった。
野梨子はある日私に自作の詩を見せてくれた。
「私の夢、それは遠いところに行くこと、
誰も知らない、遠いところ、
そこでなら私の夢もかなうのだから。」
そんな詩だったと記憶している。
『さびしそうな詩だね。」というと。
「そうかなあ、こんな山奥にいるとどこか遠いところに行きたいって誰でも思うのよ」
と、いたってのんきであった。『先生の家って山下県でしょ。今度つれてって。」
と突然言ったり「先生の下宿へ料理しに行ってあげるわ」と甘えた瞳で言ったり、
私は、確かに心の中では、野梨子に対する感情の高ぶりをおさえ切れないようになってもいたのであった。
生徒会長の渡部さんはそんな、私の気持ちを見透かしたかのように
ある日、
『先生、野梨ちゃんのことすきなんでしょう?卒業したら結婚しちゃえば」
何て言ってけらけら笑った。
聞くところによると
野梨子はこの山の二つ先の浅間温泉のさる旅館の娘で、
1人っこでたいそう大事に育てられたのだという。
たしかに野梨子はこんな山奥にしては、垢抜けていたし、育ちのよさから来る、
お嬢様っぽい少女ではあった。そしてみにつけるものも35年前のあんな山奥にしては皆、上品な物ばかりだった。
恐らくは高原の別荘地で、旅館を営むからには自然とハイブローな避暑客から、
影響を受けて、お上品に育ったのだろう。と思われるのだった。
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