月野の決意
月野は自動車事故に巻き込まれ入院をしていました。
昨日昼ごろ、郊外のスーパーマーケット駐車場で無職、脇見後操作さん(85)の乗る軽自動車が運転を誤って、店内に突入しました。
警察の調べによりますと、脇見後さんはブレーキとアクセルを間違えて、バックで急加速した模様。
付近を通行中の会社員 月野太陽さん(35)を巻き込んで店内に突入し、停止したとのことです。
現在月野さんは病院に搬送され、意識不明の重体です。
それでは次のニュースです……
***
「先生、月野さんのご家族は……」
看護師が状況について確認していた。
「テレビのニュースでも流れてたけど、親戚すらこないよ。救命を最優先してたけど、長期になると、転院も考えないといけないね。しかし、それを話す相手がいない」
主治医は困った顔をしている。
「一度見舞いに来た大家さんでしたっけ、あの人から何かわからないんですか?」
看護師は患者情報が少なすぎることを嘆いていた。
「あの人は単なる大家だからね。月野さんはこれまで、てんかん発作で何度か入退院していたみたいだよ。でも、そのたびに自分が呼び出されて、正直まいっているようだったね。今回も部屋をどうしようか考えているみたいだよ」
主治医はそのあたりはどうにもならないと思っているようだった。
「会社もとくに情報がないようですね。保証人とは連絡が取れないというのは聞きました」
看護師が一度来た同僚から聞いた話を伝えていた。
「この人はどうも色々な親戚に育てられたみたいだよ、大家さんがそう言ってた。なんでも早くに母親を亡くして、父親は蒸発したらしい。それで両方の親戚を転々としていたみたいだね。まあ、それくらいかな、僕の方で把握できたのは」
主治医はお手上げだというそぶりを見せている。
「なのに、だれもこないんですか?ひどくないですか?」
看護師が少し不満げに話していた。
「まあ、実際折り合いがついていなかったみたいだね。これは全部大家さんから聞いたことだからね、本人がそう言ったんだろう。でも、ますます承諾がとりにくい。大家さんにいろいろしてもらってるが、ここまで来るのも大変だと先日言ってたよ。たしかに、遠いからね。あの人に相談するのも限界かもしれないね。大家と言う関係でここまでしてくれただけでも、いいのかもしれないけどね」
主治医はややあきらめた様子だった。
「いずれにせよ、月野さんの状態は安定してきた。ただ、意識が回復しない。けいれん発作は起きていないが、脳波は時々乱れているね。転院の手続きをしてもらおうかな……。ここで全部を見るわけにもいかいないしね」
主治医は方針を固めていた。
「また、大家さんをよんどいてくれる。今度の火曜日午後がいいな。その時間ならあの人も来れるでしょ。僕は一応外来終わってると思うけど、立て込むようならまってもらってね」
そう言って主治医は病室を離れて行った。
看護師もそのあとに続いていた。
***
また、知らない天井だ……。
やはり体は全く動かないか……。
しかし、音は感じることができる。
目は見ることができる。
とりあえず、情報を得ることはできるみたいだな……。
機械の駆動音。
規則的な電子音。
エアコンの音なのかもしれないが、足の方から空気を吐き出しているような音も聞こえる。
やけにベッドが柔らかい。
ああ、空気を循環させているんだ。
目だけであたりを窺うと、釣り下がったいくつも点滴がみえる。
ここが病院であることは明らかだ。
一体今回はどれほど時間がたったのだろうか……。
でも、生きていた。
この世界の俺は、まだ死んでいなかった。
少なくとも、現実世界には帰ってくることができた。
最大の懸案事項は解決した。
しかし、それは次の疑問の入り口となる。
問題はここがどこか。
問題はいまがいつか。
問題は自分の状況はどうなのか。
そして問題は、再び自分はあの世界に戻れるのかどうか。
何気ない疑問に、もう一度自分の意志を確認する。
戻れるかどうか?
俺にとって現実世界は今いる世界だ。
月野太陽という存在はこの場所で存在している。
しかし、俺の気持ちは戻るという表現をしていた。
真祖……。
あの時、自分で言った言葉の意味を考えていた。
実は、俺はどちらの世界にも属していないのか?
現実だと思っていた月野太陽も単なる憑代に過ぎないのか、ヘリオスには憑依しているのか?
はたして俺は何者なのか……。
答えの見えない疑問を、ただひたすらに繰り返していた。
「そんなことはこの姿を見てからいうんだね。」
突如、ノルンの言葉が頭をよぎる。
「おかえりなさい」
そして、笑顔のルナがそこにいる。
「私たちに頼みごとをするんだから、君は責任を持ってその成果を自分の目で確認すること」
師匠の言葉を思い出していた。
ああ、そうか……。
頬を伝って零れ落ちる涙。
それが耳に入る感覚も、今の自分ではどうしようもない。
そして涙は、止まることを知らずに流れ落ちる。
その感覚は、俺にとって不快なものではなかった。
***
「先生、私もそうたびたび呼び出されても困るんだけどね。ここまでくる電車賃だってばかにならないのよ。私は単なる大家なんだよ」
部屋に入るなり、大家は主治医に文句を言っていた。
「すみませんね、大家さん。あなたしかいないんですよ。」
主治医はとても困った顔をしている。
「先生が困ったってしょうがないじゃない。私が困ってるんだよ。だいたい、私もあの人には出て行ってもらいたいくらいなんだから。今回のことでよくわかったよ。仮にあの人がなくなったら、誰もあの部屋の荷物引き取らないじゃない。それに、片付けとか、家賃のこととかさ、面倒なことが多いのよ。挙句の果てに、部屋で死なれちゃたまったもんじゃないよ。こっちも商売だからね」
文句を言う大家だが、その顔は疲れ切ってた。
「だいたい、今回の入院費用からなにまで一切の面倒を見さされているんだよ。親戚に連絡しても、『そんな人はいない』と言われたりしてね、入居時の連帯保証人とは連絡がつかないしね。全くいい迷惑だよ。あの人の周りには誰もいないんだよ。今回のことで、それがよくわかったよ」
うんざりした様子で、盛大にため息をはいていた。
「しかもだよ。事故の相手は無保険で、家族がいない老人じゃないか。月野さんの会社に行って傷病手当で何とかもらおうとしても、月野さん本人の口座に振り込まれるので、どうしようもないっていうしね。月野さんが意識を回復すればいいけど、回復しなければ全部私が被るってのかい?まったく冗談じゃないよ」
ここぞとばかりにまくし立てている。
それを言うためにここに来たかのようだった。
主治医はただ聞くしかなかった。
「だから、先生わたしはこれ以上あの人とかかわるのはごめんなんだよ。わかった?今回で最後、もう来ないからね。そんな義務ないよ。私は単なる大家だからね」
鼻息荒く、宣言していた。
その時、扉をたたく音がして、部屋に看護師が入ってきた。
「先生。お話し中すみません。月野さんの意識が回復したようです」
息を弾ませ、急いでやってきた看護師は、その場の誰もが待ち望む報告をしていた。
*
「月野さん、わかるかい。ここは病院だよ。あなたは怪我をして運ばれてきました。わかる?」
主治医は俺の反応を確認した後、耳元でそう言う。
その後、じっと俺を見ている。
俺の機能を確かめているようだった。
言っている意味は分かる。
でも、それを伝えることが難しい。
俺は話す機能を失っていた。
しかし、どうにかして意思表示をしなければならない。
どうすべきだ……。
首から下の感覚がない。
どうにかして、俺の意志を伝えることはできないか……。
頭を動かそうとして、かろうじてそこが動かせることに気が付いた。
これで、何とか伝えることはできる。
ほんのわずかに小さく頷けた。
「月野さん、私わかるかい、大家だよ。今まであんたの面倒ずっと見てきた大家だよ」
大家さんは主治医の背中から声をかけていた。
主治医を押しのけそうな勢いの声に、俺は大体のことを理解した。
とりあえず安心してもらおう。
俺は頑張って頷く。
この動作だけでも、今の俺にとっては大変な作業だった。
「わかるようですよ」
医者が俺に代わって答えてくれていた。
大家さんからは、俺の姿は見えないのだろう。
「よかったよ……」
それでも、主治医の後ろで安心したような声が聞こえる。
それが何を示しているのかは考えない。
迷惑をかけたのだから、それは仕方がないことだ。
俺も、大家さんしか頼る人がいなかった。
こうなる可能性は考えていたが、そのための準備が不十分だったということだ。
「月野さん、あなたは、長い間意識がない状態でした。いろいろ混乱はあると思うけど、じっくりと回復を待つしかない。しかし、この病院ではそれができないので、違う病院に行ってもらうけど、いいかな」
主治医は転院の説明を始めていた。
この世界では、また邪魔者になっていたのか……。
「ちょっと先生。それよりも私の話が先だよ。月野さん、今までいろいろお金を貸しているんだよ。あんた、カードの番号をおしえておくれ。そうしたら、あんたの口座からお金を出してきてあげるよ。もちろん私が立て替えたものは返してもらうけどね」
ついに大家さんは、俺の視界に入ってきた。
血走った目が、その意志をはっきりと伝えている。
このチャンスを逃す気は無いようだ。
「大家さん、今はそんなこと言うときじゃないですよ」
大家さんをたしなめているのは、状況的に看護師だろう。
「あんた!きれいごと言ってんじゃないよ。半年だよ!半年。こっちは生活がかかってんだからね。この人に何かあってみな、こっちは大損なんだよ!」
大家さんも必死だ。
怒気をあげて食ってかかっている。
自分は間違っていない。
そう思っても、その言葉は大家さんも分かってるんだ。
だから、あんなにも怒っている。
それにしても、半年たってたのか……。
大家さんの態度も納得できる。
半年の家賃滞納。
その上、赤の他人の病状説明と同意とか、そういったまでやってくれてたのだろう。
大家さんには感謝しきれないな……。
「大家さん、大丈夫だから、それはまた後で話しましょう。今は少し月野さんも目を覚ましたばかりだからね。じゃあ、転院の手続きをしていきます。月野さん、また後でお話ししますね」
そう言って主治医は大家を連れて病室を後にした。
今の会話でいろいろ理解できた。
ここは救急搬送された病院。
あれから半年たっていた。
俺は半年間意識が覚めない状態だった。
そして、大家さんは半年間自分の入院費用やいろいろなことで振り回されたのだろう。
大勢いる親戚は、知らんふりを決めたのだろう。
そして、大家さんにだけに迷惑がかかった。
そして病院は半年も入院させていたから一刻も早く、違う病院に送りたいのだろう。
俺は、俺の居場所を求めて、努力して作ったつもりだった。
でも、今回のことで、それは消えてしまっていた。
また、俺は邪魔な人間になっていた。
何も悪いことをしていないのに……。
泣きたい気分だったが、涙は出てこなかった。
悲しくはない。
そう、寂しさだ。
仮にも三十五年いた世界で、結局何も得られなかった。
いや、ちがう。
確かに得られたはずだった。
でも、俺はそれを放棄したんだ。
あの世界に帰る。
そう思えば思う程、この世界とのつながりを失っていくのが分かる。
それは、俺が望むことに必要なことだと思えていた。
*
次の日、会社の同僚が面会に来た。
昨日大家さんから連絡が入ったのだろう。
とりあえず、同僚は俺の回復を祝っていた。
大体の事情は分かっているのか、同僚は事務的に話している。
今回の件は労災として会社で手続きはしているとのことだった。
そして、半年間の長期休業により、俺が抱えていたものは、すべて他のものが引き継いでやってくれているとのことだった。
そのすべてに、俺は頷きで答えていた。
「やっぱり月野、お前話せないのか?」
知っていたが、そう言わずにはいられなかったのだろう。
それを確認することも、こいつの役割に違いない。
俺はただ、俺にできる、肯定の意思表示で答えるのみだ。
悲しさはない。
ただ、事実を伝えるのみだ。
それがもたらす結果は見えている。
俺は、笑顔で同僚を見ていた。
これで俺は、世界のつながりの一つを失うだろう。
「そうか。残念だよ」
俺の顔を不思議そうに眺めている同僚は、そう言って帰って行った。
次の日には、俺のもとに二つの知らせが届いていた。
一つは転院先が決まったということ。
そしてもう一つは、職務履行不能状態であるので、退職扱いになったことだった。
それら全てを、淡々と聞いていた。
そして退職金は大家さんに返金することを同僚から勧められて、それに同意した。
先に来た大家さんから、家の退去の話はすんでいる。
荷物の整理はできないので、大家さんがしてくれるということになった。
銀行口座の暗証番号も、難航したがすでに伝えてある。
カードは財布から抜き取ってもらった。
その中で賄ってもらえるだろう。
お金を引き出し、病院の支払いも済ませた大家さんは、もうたぶん来ない。
会社とも縁が切れた。
俺はこれまで作った、すべてのつながりをうしなった。
自分で体を動かすこともできない。
自分の気持ちを十分に伝えることもできない。
自分の意志で、新しいつながりを作ることができない状態にある。
そして機械的に、俺は別の病院に転院していった。
*
転院先の病院では、ある看護師にコミュニケーションをはかるため、文字盤での会話を試みたいと言われた。
それは俺の視線の動きで、文字を特定していくものだった。
俺に意思表示してもらって、少しでもリハビリにつなげたいという意欲がみられた。
こんな俺でも、つながりを持とうとしてくれる人がいることに、正直驚いた。
「どんなことでもいいから、月野さんの思ったことを教えてください」
そう言われて、俺は自分が今思っていることをつげる。
「ぼくはかならずかえつてみせる」
それだけ見つめると、俺は目を閉じていた。
何度試みられても、ただそれだけを繰り返し伝える。
いつしか誰も文字盤を使わなくなっていった。
生まれようとしたつながりを、俺は自ら拒否していた。
その後も俺は転院を繰り返し、ただひたすらに願い、待ち続けていた。
自力では何もできない体のままで、体はどんどん痩せ続けていく。
しかし俺は、自分の考えが正しいことを確信していた。
すでに俺の目は、向こうの世界に向いている。
準備は着実に進んでいる。
流れのようなものが、確実に感じられた。
必ず帰る。
そこで待ってくれている人がいる。
俺の居場所はそこにある。
その時が来るまで、俺はあの世界を見守り続けていた。
月野は自分の存在について考えていました。そして、あの場所に帰ることを強く望むようになっていました。




